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飛騨市(古川町)概要: 飛騨市古川町は古くから開けていた地域の1つで、御番屋敷先史時代住居跡では7基の住居跡が確認され、縄文土器片約500点、石器類17点が出土し、貴重な事から岐阜県指定史跡に指定されています。
中野山越遺跡からは周辺地域の特徴が見られる、土器類29点、土偶残欠4点、土製耳飾2点、石器類318点、石製装飾品8点、石棒1点等が発掘され、貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。
飛騨市古川町には信包八幡神社跡古墳や高野光泉寺古墳、高野水上古墳、大洞平第ニ号墳、大洞平第一号墳など数多くの古墳が築造され飛騨国の中での重きを置く場所でした。
信包八幡神社跡古墳は6世紀初頭頃に築造された前方後円墳で、墳長64m、後円部直径45.2m、高さ9.88m、前方部前端の長さ39.4m、高さ7.2m、横穴式石室、二段築成、副葬品として勾玉・管玉・金環などが多数発見、貴重な事から岐阜県指定史跡に指定されています。
高野光専寺古墳は7世紀初頭頃に築造された円墳で、直径13m、横穴式石室、石室全長8.7m、入口付近高さ3.6m、玄室は全長3.8m、幅2m、高さ2m、羨道部は現存長4.3m、貴重な事から岐阜県指定史跡に指定されています。
律令制下では美濃国荒城郡深河郷に属し、「日本書紀」応神天皇二年三月条には「深河別」と記され、当地との関係性が窺えます。
「和名抄」では「布加々波」と記され、「ふかかわ」から「ふかわ」、さらに「ふるかわ」に転じたと推定されています。
白鳳時代には古川盆地に仏教寺院が8ヶ寺と高山盆地の4ヶ寺を圧倒しており、古代は古川盆地が飛騨国の中心地で、文化的にも進んでいました。
文化的技術的も高く、飛鳥の宮殿や寺院の造営に携わり、後に「飛騨の匠」と呼ばれる工匠が古代にも数多く存在したと思われます。
杉崎廃寺は白鳳時代に創建されたと推定される古代寺院で、変則的な法起寺式伽藍配置を有し、中門や金堂、塔、講堂、鐘楼などの遺構が確認されています。
杉崎廃寺には花崗岩製の塔心礎や、同時代の古代寺院としては極めて珍しい施設内部に施設した石敷、多数の木製品と郡符木簡などが発見され、貴重な事から岐阜県指定史跡に指定されています。
飛騨市古川町に境内を構えている延喜式神名帳に式内社として記載されている神社は高田神社だけですが、式外社として三代実録で従五位下を授かった大歳神社や気多若宮神社が鎮座しています。
建武の新政で功績があった姉小路氏が飛騨国司に任ぜられると、当地に下向したようで、建武の新政で再興された国司制度が瓦解した後も、慣習的に姉小路氏が飛騨国司と呼ばれています。
姉小路氏は南北朝時代には南朝方に属し、室町幕府から飛騨国守護職に任ぜられた北朝方の京極氏とは激しく対立しています。
「荘厳講記録」の応永一三年(一四〇六)条に「古河郷」、「教言卿記」の同年四月五日条に「古川庄被成御料所」と記され、当時は幕府料所だった事が窺えます。
佐々木道通書状によると当時の飛騨国守護職京極高光が応永18年(1411)に古川郷のうち快与名を尼子高久に与えています。
姉小路氏はその後、小島城の小島家と向小島城の小鷹利家、古川城の古川家の3家に分かれ、応永18年(1411)に当時の古川家当主である姉小路尹綱が飛騨国山科家領を巡るトラブルから挙兵しています。
事態を重く見た室町幕府4代将軍足利義持は京極氏、斯波氏、小笠原氏に命じて追討させ、激闘の末、尹綱は討ち取られています。
古川家は養子である姉小路尹家が継ぎ、姉小路基綱の代に発生した応仁の乱の際には東軍に属し重きを成しています。
又、姉小路基綱は歌人としても名を馳せ、宮中の歌会に度々参加、和歌所寄人や公家方手伝衆などを担い、後土御門天皇の歌壇の中心的存在となり、「卑懐集」や「卑懐集之外」、「飛州黄門百首集」などの歌集を編纂しています。
その後、古川氏は小島氏と小鷹利氏との抗争により次第に衰微し、弘治2年(1556)には飛騨国南部から台頭してきた三木直頼が、姉小路高綱を破った事で、古川氏の名跡を継いでいます。
三木直頼は武田信玄の後ろ盾を得た江馬時盛と激しく対立し守勢に立たされた為、越後上杉家と関係を強化しています。
天正10年(1582)に織田信長が本能寺の変で倒れると姉小路頼綱は混乱に乗じて対立していた江馬氏や鍋山氏、牛丸氏、広瀬氏などを討ち滅ぼし、内ヶ島氏と同盟した事で、天正11年(1583)頃に飛騨国を統一しています。
一方、越中の佐々成政と同盟を結んでいた事から、成政と豊臣秀吉が対立すると、秀吉方から敵視され、天正13年(1585)、豊臣家の家臣である金森長近の飛騨国侵攻により三木氏一族は破れ没落しています。
長近は高山城に居城を移しますが、古川の重要性から増島城を築き養子である金森可重を配し、当地方の軍事、行政の中心として機能させました。
城下町は高山を模した碁盤目のように整然とした町割りを計画し、現在も当時の町割りが継承されています。
慶長20年(1615)に発令された一国一城令により増島城は廃城になりますが、当地の重要性から古川旅館としてほぼ城郭の機能を残し城下町も存続させました。
元禄5年(1692)、高山藩6代藩主金森頼時が上山藩に移封になると、高山藩は廃藩、その後は天領となりますが、当地は飛騨街道の宿場町として物資や旅人の往来などで経済的に発展し周辺地域の中心の地位を保ち続けました。
現在も随所に古い町並みが残っており当時の雰囲気が感じられます。
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