太田宿(恵那市)概要: 太田宿(岐阜県美濃加茂市)は中山道の宿場町で、 江戸日本橋から51番目にあります。天保14年(1843)当時は尾張藩領で本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠20軒、家屋108軒あり、本陣は福田家、脇本陣を林家が代々務めていました。宿場は東西6町14間(約680m)の長さで東西にはそれぞれ枡形と木戸があり東側(江戸側)は祐泉寺、西側(京側)は西福寺が基点になっていたようです(戦の際は境内が軍事的な拠点となるように計画されたようです)。
太田宿は中山道三大難所(木曽の掛橋・太田の渡し・碓氷峠)の1つ「太田の渡し(当時の平均川幅85間:155m、安藤広重による東海道六十九次)」を控えていた為、木曽川が増水すると川止めとなり多くの旅人が太田宿を利用することになりました。又、郡上八幡城(岐阜県郡上市)の城下町へと続く「郡上街道」の分岐点でもあり追分には明治26年(1893)に名古屋出身の塩問屋 伊藤萬蔵が建立した道標が現存しており往時の繁栄が窺えます。
経済だけでなく宿場の西端には尾張藩の代官所(後の北地総管所)、 木曽川沿いには川並番所を設けるなど当地方の行政、軍事の中心地でもあり重要視されました。本陣では文久元年(1861)に14代将軍徳川家茂へ御降嫁となった皇女和ノ宮、元治元年(1864)には水戸藩家老武田耕雲斎(水戸藩の尊皇攘夷派で結成された天狗党を率い上洛を目指し、中山道を西上し太田宿本陣で宿泊した。幕府からは追討令が出される中、尾張藩では尊皇攘夷に傾いていた事もあり本陣では高待遇を受けました。)などが利用しています。
近代化により多くの建物が建て替えられましたが、脇本陣であった林家住宅(国指定重要文化財)や本陣表門(美濃加茂市質文化財)、旧小松屋(吉田家住宅)などが残り当時の宿場町の雰囲気を残しています。
又、観光地としても整備が進み、宿場の中心付近に設けられた太田宿中山道会館では太田宿の資料展示や周辺の観光スポットの紹介等が行われ無料の大駐車場が完備されています。
中山道:美濃路・経路
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太田宿:上空画像
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