禅昌寺(下呂市)概要: 龍澤山禅昌寺は岐阜県下呂市萩原町中呂に境内を構えている臨済宗妙心寺派の寺院です。禅昌寺の創建は平安時代、恵心僧都源信が開山したのが始まりと伝えられています。その後衰退しましたが永和3年(1377)、後円融天皇の勅願により再興され竹処崇園(京都南禅寺派の名僧)が「大雄山円通寺」として中興開山、天下十刹に列するなど寺運が隆盛します。
さらにその後、兵火により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失し再度衰退しましたが享禄元年(1528)又は天文元年(1532)に、当時の領主三木大和守直頼が杲天宗恵(勧請開山は師である明叔慶浚)を招いて「龍澤山禅昌寺」として再建、天文23年(1554)には後奈良天皇の勅願寺となり「十刹」の綸旨を賜わっています。
又、禅昌寺の塔頭である景劉院は直頼の生母で、三木重頼の室が出家した際に開基した寺院で、禅昌寺と三木家が強い繋がりがあった事が窺えます。しかし、天正13年(1585)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従った金森長近が飛騨国に侵攻し三木氏の居城である桜洞城は落城、禅昌寺はその城下町に境内を構えていたとされる為、兵火により焼失したと思われます。
その後、飛騨国を掌握した金森氏によって現在地に再興されると寺号を禅昌寺に改め、金森家の庇護もあり寺運が隆盛し郡内禅寺の総本寺として信仰を集めました。禅昌寺境内には名園として知られる「萬歳洞」をはじめ多くの堂宇(禅昌寺本堂、他10棟が下呂市指定文化財)が建立され「天下の名刹」として威容を誇り、数多くの寺宝を所有し文化財指定されています。
歴史が感じられる禅昌寺の境内
萬歳洞は禅昌寺が再興した江戸時代初期の慶安年間(1648〜1655年)に宗和流の茶人金森宗和(高山城の城主・金森可重の孫)が作庭した庭園で境内の地形をうまく利用し巨石や心字池を巧みに配する事で立体的な空間を演出し、東西7.2m、南北14.5m、面積31.5坪が昭和34年(1959)に岐阜県指定名勝に指定されています。
その他にも木造釈迦如来坐像(制作年:15世紀・像高:52.5cm)、木造観世音菩薩半跏像(制作年:14〜15世紀・像高:85.5cm)、釈迦涅槃図(絹本彩色軸装1幅・制作年:室町時代・寸法:縦190cm、横118cm)、白隠禅師筆絵画4幅(「出山釈迦像:縦123cm、横51.5cm」、「布袋図:縦56cm、横92cm」、「達磨像:縦89cm、横29cm」、「半身達磨像:縦125cm、横52cm」・白隠が江戸時代中期の宝暦8年:1758年に禅昌寺を訪れた際描いたもの)、白隠禅師書跡7幅(白隠が江戸時代中期の宝暦8年:1758年に禅昌寺を訪れた際書したもの) が岐阜県指定重要文化財に指定されています。
禅昌寺観音堂背後に生えている大杉は、推定樹齢1200年、樹高約40m、目通り幹周10.3m、目線には亀状の瘤、上部は6本に分れる大木で昭和4年(1929)に国指定天然記念物に指定されています。
益田西国三十三霊場第33番札所。新四国飛騨八十八霊場第68番札所。中部四十九薬師霊場第38番札所。山号:龍澤山。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:釈迦如来、観世音菩薩、薬師如来。
禅昌寺:上空画像
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