高山市: 飛騨一宮水無神社

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概要・歴史・観光・見所
飛騨一宮水無神社(高山市)概要: 飛騨一宮水無神社は岐阜県高山市一之宮町大野郡宮村字石原に鎮座している神社です。飛騨一宮水無神社飛騨一宮水無神社の創建は不詳ですが仁寿元年(851)に正六位上に、元慶5年(881)に従四位上に列した古社で、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載され、式内社は飛騨国に8座ありその首座にあったことから飛騨一宮や総社として格式の高い神社だった事がわかります。御神体は境内前に流れる宮川の源流である位山(標高:1529m)で、中腹から山頂にかけては奇岩怪石が数多く点在し、日本の表裏を分ける分水嶺として古くから神体山として信仰の対象となっていました。位山にある一位(櫟)は御笏として朝廷に献上するのが慣わしとして、最古の記録では平治元年(1159)から見られ現在でも歴代天皇御即位に献上されています。又、新古今和歌集で源通親(土御門内大臣)が、「位山あとをたづねてのぼれども 子を思ふ道になほ迷ひぬる」と詠んでいることからも鎌倉時代初期には中央にも聞こえる存在だった事が窺えます。

飛騨一宮水無神社は歴代朝廷や為政者、領主から崇敬され弘安4年(1281)には地頭朝高が洪鐘を寄進し天文23年(1554)には後奈良天皇震筆の紺紙金泥大般若経を奉納しています。建保2年(1214)に神領が回復すると社運が隆盛し、最盛期には社家12人を擁し、社領は近隣18ヶ村3千7百石余に及んだと伝えられています。戦国時代になると、領主である三木家(姉小路家)と姻戚関係を結びさらに社運も隆盛しましたが、天正10年(1582)に三木家の後ろ盾だった織田信長が本能寺の変で自刃すると、織田家臣である佐々成政に与した為、対立関係にあった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣金森長近の侵攻を受け、天正13年(1585)に滅亡、飛騨一宮水無神社も兵火により多くの社殿が焼失し、さらに庇護者を失った事で衰微しました。

江戸時代初期の慶長12年(1607)に高山藩(藩庁:高山城)の藩主金森長近が拝殿造営するなど庇護した事で再び信仰を広め、元禄5年(1692)に6代藩主金森頼時が上山藩(山形県上山市)に移封され高山藩が廃藩になった後も、代官、郡代が崇敬庇護しています。江戸時代中期の安永2年(1773)に発生した「大原騒動」では当時の神官だった山下和泉や森伊勢など4人が騒動に参加した事もあり、飛騨一宮水無神社の境内が一揆の集会場となり、一揆が鎮圧されると、参加した神官4名は磔となり処罰されています。その後、信州(現在の長野県)から梶原伊豆守家熊が召喚され、一揆の思想になったと思われる神仏習合の思想を取り除き唯一神道として境内を一新しました。飛騨一宮水無神社は古くから神仏習合し境内には本地堂が設けられ(以前は阿弥陀堂、鐘堂、仁王門なども建立されていましたが、大原騒動後に破却されました)、本地仏として釈迦像が安置され、「水無大菩薩」などと号していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、明治4年(1971)国幣小社に列し、明治10年(1877)には国費により社殿が造営されています。

飛騨一宮水無神社の文化財
・ 絵馬殿(旧拝殿)−慶長12年−高山市指定文化財
・ 飛騨一宮水無神社の神事芸能−岐阜県指定無形民俗文化財
・ 木造飛騨一宮水無神社神像-平安〜鎌倉-岐阜県指定重要文化財
・ 大スギ−推定樹齢800年−岐阜県指定天然記念物

飛騨一宮水無神社:写真

飛騨一宮水無神社
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