飛騨国分寺(高山市)概要: 醫王山国分寺は岐阜県高山市総和町に境内を構えている高野山真言宗の寺院です。国分寺の創建は天平13年(741)、聖武天皇が国家鎮護のため各国に1ヶ寺を設けたもので、飛騨国分寺は、天平18年(746)に名僧として知られた行基菩薩が開基となり開かれたと伝えられています。
天平勝宝元年(749)には飛騨国造高市麻呂が国分寺に知識物を奉納し従五位下を授けられるなど、歴代領主から庇護され当地方の中心寺院として寺運が隆盛し境内には七堂伽藍が造営されました。
平安時代初期の弘仁10年(819)に火災により堂宇が焼失、文徳天皇嘉祥3年(850)に飛騨国講師徳厳により再興が図られ斉衡2年(855)頃に再建、寺領として五千束が認められています。
その後の由緒は不詳ですが(朝廷の権威が失墜した鎌倉時代に衰微したと推定されています)、応永年間(1394〜1427年)火災などで焼失し後に再建されています。
天正13年(1585)、金森長近と三木氏との兵火により再び多くの堂宇が焼失、その後飛騨国を制した金森長近が天正年間(1573〜1592年)に玄海和尚を招いて中興しています(現在の本堂は長近が山田村に建立されていた薬師堂を移築したものと伝えられています)。
飛騨三十三観音霊場第1番札所。中部四十九薬師霊場第41番札所。山号:醫王山。御詠歌:詣で来る人の絶え間も無かりけり御薬師まつる国分の寺。宗派:高野山真言宗。本尊:薬師如来。
飛騨国分寺の歴史を見つめてきたイチョウの大木
現在の飛騨国分寺本堂は金森長近が安土桃山時代の天正年間(1573〜1592年)に再建したと推定される建物で、木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行5間、張間4間、正面1間向拝付き、室町時代に建てられた寺院本堂建築の遺構として貴重なことから明治42年(1909)に国指定重要文化財に指定されています。
飛騨国分寺三重塔は寛政3年(1791)に暴風雨で倒壊後、文政3年(1820)に再建されたもので、宝形屋根、銅板葺き、高さ22.4m、桁行3間、張間3間、飛騨地方唯一の三重塔として貴重な事から昭和49年(1974)に岐阜県指定有形文化財に指定されています。
飛騨国分寺鐘楼門は元禄5年(1692)、高山藩6代藩主金森頼時が出羽国上山藩(現山形県上山市)に移封に伴い高山城が取り壊しとなり、その一部が移築してきたものと伝わるもので、入母屋、銅板葺き、一間一戸、四脚2重楼門、桁行3.045m、梁間2.4m、外壁は柱のみの吹き放し、高山城の数少ない遺構として貴重な事から昭和33年(1958)に高山市指定文化財に指定されています。
飛騨国分寺:上空画像
飛騨国分寺山門は江戸時代中期の元文4年(1738)に飛騨代官長谷川忠崇の手代小林儀右衛門ら4人の寄進により、棟梁として松田太右衛門が中心となり、葺屋富田喜兵衛、内山傳四郎が携わった建物で、切妻、銅板葺き、一間一戸、四脚門形式、棟札がある為、寄進者や技術者が明確で、当時の寺院山門建築の遺構として貴重な事から昭和52年(1977)に高山市指定文化財に指定されています。
飛騨国分寺本尊である木造薬師如来坐像は藤原期(平安時代後期)に制作されたもので像高145.7cm、檜材、一木造、彫眼、明治34年(1891)に国指定重要文化財に指定されています。
飛騨国分寺の文化財
・ 飛騨国分寺塔跡(七重大塔の心礎)−国指定史跡
・ 飛騨国分寺本堂−室間時代−国指定重要文化財
・ 木造薬師如来坐像−平安時代−国指定重要文化財
・ 木造聖観音菩薩立像−平安時代−国指定重要文化財
・ 太刀(伝高原諏訪城城主江馬氏家宝)−国指定重要文化財
・ 大イチョウ−推定樹齢1200年−国指定天然記念物
・ 木造阿弥陀如来坐像(伝恵心僧都作)-鎌倉-岐阜県指定文化財
・ 木造不動明王立像−鎌倉時代−岐阜県指定重要文化財
・ 飛騨国分寺三重塔−文政4年−岐阜県指定重要文化財
・ 表門(山門)−元文4年−高山市指定文化財
・ 鐘楼門−室町時代(上層部江戸時代)−高山市指定文化財
・ 随神木像(飛騨匠作)−高山市指定文化財
・ 鰐口−慶長3年−高山市指定文化財
・ 神鏡(2面)−康正3年−高山市指定文化財
・ 絵馬(4面)−慶長5年他−高山市指定文化財
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