【 旧肥田家住宅 】−肥田家の祖とされる肥田玄蕃は美濃の土豪であった明智家の家臣で、玄蕃の子供される肥田帯刀則家は織田信長に従った明智光秀の小姓などを歴任し、天王山となった山崎の戦にも従軍しています。その後の則家の消息は不詳ですが(討死?)、正室は嫡男三右衛門と共に中津川の地に土着、帰農し、江戸時代に入り中山道が開削され中津川宿が整備されると、実力者として宿場の上役を歴任しています。肥田家は屋号「田丸屋」を掲げ、旅籠を営む一方で江戸時代中期の享保3年(1718)から宿場制度が廃止となった明治5年(1872)まで中津川宿の庄屋を歴任しました。中津川宿の支配層として教養が高い当主を輩出し、特に10代当主肥田九印兵衛通光は俳諧や絵画を門人に教える一方で、平田篤胤の教えに傾倒し有力な門人の一人でもあります。平田篤胤の教えは天皇を強く意識させるものだった事から、必然的に倒幕思想が芽生え、幕府から追われた倒幕の活動家を密かに支援をしていました。中津川宿の本陣職を担った市岡殷政や、豪商と知られる間秀矩なども同様に平田派の教養人だった事から、元治元年(1864)に水戸天狗党が中津川宿を通過した際にも、宿場を挙げて歓待したと伝えられています。現在の主屋は江戸中期の建物で、木造2階建、切妻、桟瓦葺(下屋庇:鉄板葺)、平入、2階正面は1階から構造材を持ち出し外壁を支える出桁造り、2階正面両側には本ウダツ、外壁は真壁造り黒漆喰仕上げ(外壁側面は下見板張り縦押縁押え)、当時の大型町屋建築の遺構として貴重な事から中津川市指定文化財に指定されています。
【 中津川宿 】−中津川宿は江戸時代初頭に開削された中山道の宿場町で、江戸時代後期には旅籠が30軒前後と比較的に大きな宿場町でした。経済的には周辺の宿場町と比べると大きく発展し、間家など多くの豪商を輩出しています。現在でも中津川宿旧庄屋屋敷(旧肥田家・中津川市指定文化財)や吉本屋、はざま酒造、白木屋、十八屋、松霞堂などの町屋建築が残されています(脇本陣森家は土蔵と座敷の一部が残され、中津川市中山道歴史資料館として一般公開されています。豪商である間家が大正時代に造営したの3階建の蔵が中津川市指定文化財に指定されています)。又、恵那神社の参詣道が分岐している事から追分には道標が建立されています。
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