中津川宿本陣概要: 中山道の宿場町である中津川宿の本陣は代々市岡家が担いました。市岡家は少なくとも奈良時代から続く旧家で、特に幕末の当主だった市岡長右衛門殷政は中津川宿の本陣を務める一方で平田国学の門人として尊王攘夷運動を独自に展開し、文久2年(1862)には中津川宿で行われた長州藩の「中津川会議」を画策し、慶応4年(1868)の戊辰戦争の際は官軍の進軍を関東まで先導しています。
案内板によると「 本陣の入口には5軒続きの長屋が建ち、その中央の1軒分が門となっていた。門右手の1軒分は問屋場で、門をくぐると表庭があり、その奥に建坪283坪の本陣があった。表門の右手に長屋があり、その奥が厩(馬屋)になっており、表門の正面は内玄関と縁3間半の荷置場があった。その奥が台所、貴人一行自らが調理した所や御膳所があった。その奥が勝手向きで、勝手の諸施設や多くの部屋もあった。
表庭の左手に中門があり、その右に番所も置かれ、庭は高塀で囲まれていた。玄関の奥には玄関の間、ついで三の間・次の間・中の間・上段の間へと続いた。上段の間は9畳で、床の間を設け、備後表で大紋縁付きの上畳が2畳おかれていた。上段の間には湯殿、上り場、雪隠などがついていた。裏も庭となり高塀で囲われ、御退道の門戸があり、非常の時は近くの大泉寺へ避難できた。」とあります。
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中津川宿本陣:上空画像
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