垂井城概要: 垂井城の築城年や位置などは不詳ですが 長井景頼が室町時代に垂井領主になった以降に築かれたと推定されています。天文年間(1532〜1555年)、長屋景興が居城を相羽城に移した後、天文16年(1547)に斎藤道三の侵攻により長屋家は没落すると垂井城も廃城、又は大きな機能が失われたと思われます。慶長5年(1600)、平塚為広が垂井領1万2千石で入封すると垂井城を居城にし整備拡張したと思われますが、同年の関ヶ原の戦いで為広が討死すると廃城になっています。
平塚為広は豊臣秀吉の馬廻として使え、小牧・長久手の戦いや小田原征伐などに従軍し関が原の戦いでは西軍に与し伏見城の戦い、大垣城の譲渡交渉などを行っています。多くは大谷吉継と行動を共にし佐和山城(滋賀県彦根市)では吉継と一緒になり石田三成に対し諫言し、戦場では病気で動きの取れない吉継に変わり、大谷隊を指揮しています。
その際、裏切った小早川秀秋を3度に渡り押し返し小早川隊370人の戦死者に対し大谷隊180人と善戦しましたが、同じく東軍に寝返った脇坂隊、朽木隊、赤座隊、小川隊に挟撃され戦線が崩壊しました。為広は敗戦を悟ると「名の為に捨つる命はおしからじ ついにとまらぬ浮世と思えば」の辞世の句を吉継に送り小川祐忠の家臣・小川勘助の隊下の樫井太兵衛に討たれたと伝えられています。子の庄兵衛も討死した為、平塚家は事実上没落し垂井城も廃城になったと思われます。
垂井城の跡地は明確な遺構が無い事から正確な位置は不詳ですが垂井宿から見ると西南方向の高台が文献や地形などから比定地とされ、現在は専精寺の境内となり、石碑と案内板が建立されています。又、垂井城の城跡の直下には枕歌にもなった垂井の泉(岐阜県指定史跡)があります。
垂井城:上空画像
|