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【飛騨街道】−飛騨街道は中山道の太田宿(岐阜県美濃加茂市)から古川宿(岐阜県飛騨市)に至る街道で、元禄5年(1692)に金森頼時が上山藩(山形県上山市)に移封となり高山藩が廃藩になるまでは、高山藩主金山家の参勤交代の経路として利用されてきました。又、領内でも支城があった古川宿(増島城:飛騨市)と萩原宿(諏訪城:下呂市)と本城(高山城:高山市)のあった高山宿を結ぶ主要幹線でもありました。高山藩が廃藩になると高山は天領と以後、幕府の役人が飛騨街道を行き来し引き続きしました。
【下呂宿】−下呂宿は飛騨街道の宿場町で中山道の中津川宿(岐阜県中津川市)を結ぶ南北街道との合流地として重要視され宿場内には本陣と脇本陣が設けられていました。古くからの交通の要衝でもあり律令政治下での官道が通り、江戸時代の宿場町にあたる駅(下留駅)が設置されていました。下呂の地名はこの時に設置された駅の名称「下留駅」に起因すると云われています。
【下呂温泉】−下呂温泉は平安時代に湯ヶ峰の山頂付近にあった事が既に知られていましたが、鎌倉時代中期になると山頂の源泉は枯渇し、新たに現在地付近の川原に湧き出しました。その際、薬師如来の化身である一羽の白鷺が源泉で傷を癒しているのを住民が発見し、新たな下呂温泉が開湯したと伝えられています。さらに、住民が白鷺が去っていた方角の山に入ると薬師如来の仏像を発見し温泉寺を創建し下呂温泉の守護神としました。その後、下呂温泉の功能が全国的に広がると、万里集九(室町時代の禅僧、歌人、「梅花無尽蔵」という詩文集の中で、下呂温泉について記されています。)や林羅山(江戸時代初期の朱子学派儒学者)は草津温泉(群馬県草津町)と有馬温泉(兵庫県神戸市)と共に日本三名泉として讃えた為、益々湯治客が増えました。現在は大型宿泊施設が進出する中、飛騨街道沿いは古い木造の建物が軒を連ね、雰囲気のある温泉街が一部に見る事が出来ます。
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