可成寺(可児市)概要: 大龍山可成寺は岐阜県可児市兼山に境内を構えている臨済宗妙心寺派の寺院です。元亀元年(1570)、織田信長の古参の家臣だった森可成が交通の要衝で軍事的拠点である宇佐山城を死守する為、浅井長政・朝倉義景の連合軍3万の軍勢と背後の比叡山延暦寺(滋賀県大津市)を相手取り、僅か1千の兵を率い応戦し討死しました(宇佐山城の戦い)。遺体は、日頃から庇護していた聖衆来迎寺(滋賀県大津市)の住職が密かに運び出し境内に葬られた為、比叡山焼き討ちの際も織田軍の攻撃目標からは外されています。
元亀2年(1571)、跡を継いだ森長可が可成の菩提を弔う為、栄巌和尚を招いて開山、父親の名前に因み大龍山可成寺と名付けられました。3代森忠政は当初豊臣秀吉に従いましたが、秀吉が死去すると徳川家康に与し、慶長5年(1600)には家康の独断で川中島(長野県)13万7千石に移封となり、関が原の戦いでも東軍として行動しています。
可成寺は川中島には同行せず、金山城東の寺が峰から現在地に移っています。忠政は最終的に津山藩18万石まで加増され隆盛しましたが津山藩3代藩主森長武に跡継ぎが無く改易、その後再興が許され、一族が赤穂藩2万石、三日月藩1万石を立藩、さらに親戚筋である関氏が新見藩1万8千石を立藩し、可成寺は赤穂森家、三日月森家、新見関家の庇護となり堂宇の造営や寺領が寄進されました。天和3年(1682)に長可の百年遠忌法要が営まれて以来、可成・長可、蘭丸、坊丸、力丸の遠年忌が執り行われています。
昭和42年(1967)には、蘭丸、坊丸、力丸の供養塔が八百津町中野から可成寺境内に移されています。可成寺境内にはある芭蕉翁之墓は明和3年(1766年)に素陽坊古牛が建立したもので貞享2年(1685年)に詠まれた「山路来て何やらゆかしすみれ草」の句が刻まれています。山門は切妻、桟瓦葺き、一間一戸、四脚門。本堂は木造平屋建て、桟瓦葺き、平入、桁行7間、外壁は真壁造白漆喰仕上げ。山号:大龍山。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:釈迦如来。
可成寺の文化財
・ 脛当-森長可愛用-岐阜県指定重要文化財
・ 森武蔵守長可公画像-可児市指定文化財
・ 森長武・忠洪書状-可児市指定文化財
・ 森家の墓所(可成・長可・蘭丸・坊丸・力丸)-可児市指定史跡
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可成寺:上空画像
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