歴史(白川郷)概要: 白川郷は岐阜県内の庄川流域の呼称で現在の白川村と旧荘川村(高山市荘川町)、旧清見村(高山市清見町)の一部で構成されていました。一般的に白川村周辺を下白川郷、その他の地域を上白川郷に分けられますが、現在は白川村のみを白川郷と呼ぶことが多いようです。歴史的には安元2年(1176)藤原兼実の「玉業」に『飛騨国白川郷』の名称が見られることから、それ以前から存在していたと思われます。寿永2年(1183)に行われた倶利伽羅峠の戦いで敗れた平家はその後の追撃戦でも敗退を続け僅かの手勢を率いて白川郷まで落ち延びたとの伝承が残っています。建長5年(1253)、嘉念坊善俊(伝:後鳥羽上皇の子又は孫)が白川郷鳩ヶ谷に正蓮寺(照蓮寺)を開山すると浄土真宗の一大拠点となり白川郷を含む飛騨国一帯に大きな影響力を及ぼします。
寛正年間(1460〜1466年)、室町幕府8代将軍足利義政の命で足利家の奉公衆の1人内ケ島為氏が現在の長野県長野市松代から白川郷に移封となると正蓮寺の僧が国人領主化した三島氏との勢力が拮抗します。文明7年(1475)に内ケ島氏は正蓮寺と決戦となり正蓮寺側の多くの教徒、僧兵は逃走、離反、又は討ち取られ長享2年(1488)には焼き討ちにあい正蓮寺の勢力は著しく後退します。内ケ島氏は白川郷全域を掌握しその後、隣国の五箇山一帯も支配下としましたが、佐々成政に属し為、本能寺の変後は羽柴秀吉と対立、秀吉家臣金森長近から攻められ白川郷にも侵攻され、和睦が成立後白川郷の一部が安堵されたものの突如として大地震が襲い内ヶ島家は山津波により居城である帰雲城と共に滅亡しました。その後は金森氏の支配下に入り、江戸時代には金森氏が藩主となった高山藩(藩庁:高山城)に属しましたが元禄5年(1692)に金森氏が上山城(山形県上山市)に移封になると幕府の天領(高山陣屋)になっています。
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