富加町(歴史)概要: 富加町大平賀に位置する後平遺跡は、縄文時代から古墳時代の複合遺跡で、縄文土器や石器、弥生時代末期から古墳時代初頭の集落跡、弥生時代末期の方形周溝墓、器台などが発見され、当時の生活の営みが感じられます。
富加町では現在51基の古墳が確認された、岐阜県内有数の古墳密集地帯で、中でも夕多茶臼古墳は3世紀前半に築造された岐阜県最古の前方後円墳で、全長39.5m、埋葬施設は構築墓坑の中央に船底形木棺1基、周堤状盛土は弥生時代後期の墳丘墓と類似点多いとされます。
蓮野1号墳は2世紀後半に築かれた突出部付き円形墳で、全長28m、後円部直径15m、器台、壺、甕、石器等が発見され、夕田茶臼山古墳と共に名称「夕田墳墓群」として国指定史跡に指定されています。
井高1号古墳は7世紀初頭頃に築造された方墳で、一辺約23〜24m、葺石、横穴式石室、富加町指定史跡に指定されています。
大宝2年(702)に制作された日本最古の戸籍である「御野國加毛郡半布里大宝二年戸籍断簡」が残されており、御野国は美濃国、加毛郡は加茂郡、半布里は富加町羽生にあたると考えられています。
これにより、半布里の戸数は中下戸一・下上戸二・下中戸九・下下戸四二、人口は正丁・正女四一四、六六歳以上の老人三二、二〇歳以下六一三、そのほか奴婢二七人と記されており、当時の富加町の人口構成の詳細が明確に知る事が出来ます。
又、加茂郡の県主一族や秦人・秦人部・勝等の渡来人集団の存在も記されています。
半布里遺跡は上記の関連遺跡で、6世紀後半〜8世紀の住居跡が約30棟と多数発見され、その他には製塩土器や平安時代の和鏡、総柱建物2棟、鍛冶遺跡等も確認されています。
富加町の町内には延喜式神名帳に式内社として記載された神社は大山神社と佐久太神社と二社があり、当時から格式の高い神社として認識されていたようです。
中世に入ると佐藤氏が支配したようで、室町時代には佐藤石見守公輝が美濃国守護職土岐家の家臣として武儀郡八幡村を本貫に5千貫を領していました。
その後、一族と思われる佐藤紀伊守忠能が台頭し、弘治2年(1556)に発生した長良川の戦いで斎藤義龍方として戦功を挙げ、加茂郡、武儀郡4千3百89貫文の所領を得ています。
忠能は永禄年間(1558〜1570年)に加治田城を築き、斎藤家が衰退すると、堂洞城の岸信周、関城の長井道利と共に同盟を結び中美濃に侵攻する織田信長に対しました。
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しかし、佐藤忠能が逸早く信長に降伏した事で戦線が崩れ堂洞城が落城、岸信周も命運を共にしています。
その後も、忠能は関、加治田合戦で織田方として戦功を挙げましたが、この戦いで嫡男だった佐藤忠康は討死しています。
永禄10年(1567)に忠能は隠居し信長の命で養子に迎えた斎藤利治が跡を継いでいます。
斎藤利治は斎藤道三の末子とも云われ、織田信長に従い、主要な合戦に従軍し功績を挙げ、天正10年(1582)の本能寺の変の際にも、二条新御所に詰めていましたが、明智軍の猛攻により討死しています。
跡を継いだ斎藤利尭は織田信孝の家老ぬ抜擢されたものの、本領を失った森長可が勢力拡大を画策し、その抗争の中、斎藤家は没落し、当地も森領として組み込まれています。
江戸時代に入ると美濃と飛騨を結ぶ飛騨街道の要衝として重要視され、周辺の経済的中心地として繁栄しました。
加治田周辺は旗本大嶋家の領地で地詰役人は平井家が歴任し、屋号として「文之字屋」を掲げ酒造業や両替商を生業としていました。
平井家の祖とも云われる平井信正は京都出身の宮内卿で、縁故のある斎藤道三を頼り美濃国に下向しました。
その後、文化人の一面もあって戦から遠ざかっていましたが、加治田城主となった斎藤利治が賓客として招き、城下町の文化向上に尽力しています。
天保9年(1838)に記録された村明細帳によると「最寄町場加治田町え凡八町」と記され、明治時代中期に描かれた加治田村の復元図によると、造酒屋、鍛冶屋8軒、とぎ師・とぎ屋5軒等、約80軒で町並みが構成されていました。
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