・青野城は元和4年に稲葉正次が2代将軍徳川秀忠に仕え、5千石が与えられた際に築かれたと推定されています。
正次が寛永5年に死去すると、嫡男である正能が3歳という幼少だった事から弟の稲葉正吉が家督を次、旗本寄合席に列格しています。
寛永18年には甲府城の守衛、正保2年には浅草寺観音堂の造営奉行、慶安3年には書院番頭等を歴任しています。
明暦2年、正吉は駿府城の護衛中、家臣の安藤甚五右衛門と松永喜内との男色問題が激しい争いとなり、それが原因で殺害されました。
跡を継いだ稲葉正休は小姓組番頭や書院番頭、将軍近習、若年寄等を歴任し天和2年には加増を受け合計1万2千石となり、青野藩を立藩しています。
青野城も藩庁、藩主居館として整備されたと思われます。
しかし、天和3年に淀川治水工事の見積を任されたものの、その費用の半額で出来ると堀田正俊に咎められ担当から外されました。
貞享元年、辱めを受けたとして正休が正俊を江戸城内で刺殺すると、その場に居合わせた大久保忠朝、阿部正武、戸田忠昌等により討ち取られ、正休も切り殺されています。
これにより稲葉家は改易となり青野藩は廃藩、青野城も廃城になったと思われます。
堀の跡や本丸の字名は大正時代迄は残されていたようですが、現在、見る限り田圃等に改変されてようです。
それでも、稲葉正休所縁の東浦溜池が残されていたそうですが、それも埋め立てられ「青野霊園」として整備された為、正休の遺徳を忍び城跡に石碑が建てられています。
岐阜県:城郭・再生リスト
|