・お茶屋屋敷は慶長10年に徳川家康が設けた上洛で中山道を利用した際の宿泊と休息施設です。
当時は豊臣家が建材で、豊臣家恩顧の大名も多数存在していた為、屋敷と呼ばれているものの、事実上の城郭で、約170m四方を土塁と堀で囲い、4つの隅にはそれぞれ櫓が設けられていたと推定されています。
屋敷内には岐阜城の麓に設けられた織田信長の居館である千畳敷御殿等61棟の建物を移築されたとされます。
徳川家康は3度、大坂の陣では2代将軍徳川秀忠が利用しています。
寛永年間になると豊臣家が滅び、将軍家が上洛する頻度が減少、街道や宿場に付随する城郭等が整備された事からお茶屋屋敷の重要性が次第に失われました。
寛永5年に天領になると、維持するにも多額な費用がかかった事から建物の大半が取り壊され、寛永12年頃には御殿だけになっていたそうです。
明治4年に廃藩置県が施行されると不破郡赤坂村の名主である矢橋宗太郎に払い下げられ、昭和24年に敷地の西半分が中学校の校庭として利用されるようになりました。
現在でも空堀や土塁、井戸等の遺構が残されており、貴重な事から岐阜県指定史跡に指定されています。
現在は牡丹園として整備され、内部が一般公開されています。
岐阜県:城郭・再生リスト
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