・大御堂城が何時頃に築城されたのかは判りませんが、古くから竹中氏が居城として利用していたようです。
竹中氏は清和源氏土岐家の支流とも桓武平氏長江家の支流岩手家の一族とも云われ、室町時代中期頃に岩手信忠の弟である重氏が竹中姓を掲げたとされます。
詳細は不詳ですが九州を本貫とする大友氏が美濃国内にも多くの領地を持っており、その一部を小庶子家の竹中氏が代官として当地を管理し、そこに重氏が養子に入ったとの説もあります。
又、別説によると、当地は古くから鎌倉幕府の御家人だった竹中氏が支配し、重氏はその名跡を継いだとも云われています。
重氏の子供とされる竹中重元は明応6年に大御堂城で生れ、斎藤道三に従い、弘治4年に発生した長良川合戦では道三と対立した斎藤義龍勢が大御堂城を急襲しましたが、姉である妙海大姉や、子供の竹中半兵衛重治、竹中重矩が守備し落城を免れています。
その後、本家筋である岩手家と対立し、永禄元年に岩手弾正を滅ぼし重元は6千貫の領主となっています。さらに、重元は永禄2年に岩手家の居城だった岩手城を菩提山城として拡張整備すると、大御堂城から本城を遷した為、程なく大御堂城は廃城になったと思われます。
因みに重元の子供である竹中半兵衛重治は天文13年に大御堂城で生れたとされ当地が生誕地となっています。
大御堂城は揖斐川を天然の外堀に見立た中世の平城で、南側は広い沼があり、東側は三重の堀で囲われていたようです。
現在は多くが宅地と田畑となっていますが本曲輪と思われる場所や、堀との境目の一部には若干の高低差が見られます。
又、城内に鎮座していた八幡神社の境内には石碑や案内板が建立されています。
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