・津田代官陣屋は江戸時代に旗本津田家によって設けられました。
初代となった津田秀政は織田家の庶流である津田家一族で、当初は織田信長に仕えるものの、正室が滝川一益の養女だった事から一益の与力として主要な合戦に従軍しています。
しかし、本能寺の変後に一益は織田信孝、柴田勝家方に与した為、羽柴秀吉に敗れ改易となり秀政も浪人となっています。
その後、織田信雄に仕えるものの、信雄も天正18年に改易となった為、豊臣秀吉の馬廻りとなり、秀吉が死去すると徳川家康に接近しています。
慶長5年に発生した関ヶ原合戦では東軍として功績を挙げた事から3千石の加増を受け、合計4千10石の大身旗本となっています。
所領は羽栗郡長池村、三ツ屋村、藤掛村、光法寺村、安八郡白鳥村、大野郡三日市場村、不破郡平尾村、可児郡長洞村、室原村等で、当初は江戸から直接支配していましたが、江戸時代中期以降は美濃と丹波に代官所を設けて支配しました。
美濃国内の陣屋は当初、安八郡白鳥村に設けていましたが、所領が多く便の良かった葉栗郡長池に移転しました。
代官は岩越家が代々歴任し、明治維新後の津田家が改易になると代官所の施設を引継いでいます。
現在も長屋門や土蔵、土塀、石垣の一部が残され、往時の雰囲気が感じられます。又、大正6年には代官所の母屋が上善明寺の庫裏として移築されています。
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