・跡部城は天文10年に跡部将監頼利が築城した中世の城郭です。
跡部家は土岐家の一族とも云われ、跡部頼利は美濃国守護職を担った土岐頼芸に従ったいましたが、天文11年に斎藤道三の下克上により、子供の頼次と共に尾張国に追放された為、その後は斎藤道三に従っています。
しかし、道三は強引な手法や悪政を行った事から家臣の支持が得られず、強制隠居を虐げられると、孫四郎や喜平次を擁立し復権を計ろうとした為、家臣の支持を得た斎藤義龍に長良川の戦いで粛清されています。
頼利は他の家臣達と共に義龍方に属し長良川の戦いでも子供の跡部貞頼と共に功績を挙げたとされます。
しかし、義龍の跡を継いだ斎藤龍興は家臣を纏める事が出来ず、さらに織田信長の美濃国侵攻を許し、永禄7年には跡部城もその一端の戦いにより落城しています。
近隣にある恵利寺は跡部氏所縁の寺院とされ、永禄7年には城と共に、焼き討ちとなりましたが、江戸時代に頼利の曾孫で、長良崇福寺八世である物堂宗接禅師によって再興されています。
以前は城の跡地は「御屋敷」と呼ばれていたそうですが、住宅街や農地整備により目立った遺構を見る事が出来なくなっています。現在、その一角に石碑と案内板が建てられています。
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