・東氏館は正和元年に東氏村が篠脇城を築いた際、麓に居館として整備されたものです。
東氏は平将門の後裔と自称し、鎌倉幕府の有力御家人だった千葉介常胤の6男である胤頼が下総国東庄に配された事から「東」姓を掲げたのが始まりとされます。
重胤と胤行は京都歌壇の大家二条為家に師事し、その奥義を継承、東氏は代々武家歌人として名を馳せました。
又、胤行は承久の乱での宇治川合戦で大功を挙げ、郡上郡山田庄が加増され、阿千葉城を築きました。
氏村は東行氏、又は胤行の次男として生れ、兄であり時常の跡を継いで東家の当主となり、美濃国郡上郡山田荘の地頭に就任しています。
氏村は歌人としても優れており、「続千載和歌集」や「勅撰集」にも歌が収録されています。
応仁2年に斎藤妙椿に攻められ、篠脇城が落城している事から、当館も大きな被害があったと思われます。
「鎌倉代草紙」によると、関東に居た東常縁が城が落城した事を聞き及び、歌10首を妙椿に送り届けると、それに応じて城を返還したと記されています。
文明3年から文明9年にかけては室町時代の連歌師である宗祇が東常縁を尋ね、秘伝である古今和歌集の解釈を師から弟子に伝える古今伝授を受けています(郡上八幡城の城下には宗祇が居宅を構えていた旧跡から宗祇水が懇々と湧き出ており岐阜県指定史跡に指定され、「宗祇水(白雲水)」として日本名水百選に選定されています)。
天文9年には越前守護職の朝倉氏から攻められ、東常慶の奮戦により撃退したものの、大きな被害を受けています。
結局、篠脇城の修復を諦め、天文10年に赤谷山に八幡城を築き、本城を遷した為、廃城となり、当館も廃されたと思われます。
館跡には目立った遺構はありませんでしたが、発掘調査により、室町時代の庭園が確認され、それに基づき復元されています。
東氏館跡庭園は貴重な事から国指定名勝に指定されています。
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