・鵜沼城は永享年間に大沢薩摩守利治によって築かれたとされる中世の山城です。
大沢氏は和泉国出身の豪族で、戦国時代には美濃国守護職の土岐氏、土岐氏が衰退すると斎藤氏に仕えました。
一方、「美濃雑事紀」の「城山古城」によると、和泉国泉郡葛城山坂元城主大沢泉守正基の子供である大沢泉守正吉が、宇留馬(鵜沼)の志水山霧ヶ城に入り3千貫文を知行したと記されています。
織田信長が台頭した頃の城主は大沢二郎左衛門で、妻を斎藤道三の娘を迎える等近しい関係でしたが、弘治2年に発生した長良川合戦では斎藤義龍方の主力として参戦し大功を挙げ「東美濃の虎」とも呼ばれたそうです。
その後、木下藤吉郎の調略により織田信長に下ったとされ、資料によって諸説ありますが、概ね次郎左衛門は信長から不審を買い、永禄年間に兵を差向られ、鵜沼城が攻められたようです。
次郎左衛門は身を隠したとも秀吉の家臣になったとも云われていますが詳細は不詳で、天正10年に柴田勝豊から阿閉貞大の旧領と浅井郡内に知行を与えられ、柴田家が没落すると秀吉、豊臣秀次に仕えたとされます。
鵜沼城は、織田家家臣の池田恒興、その後は織田信雄の重臣で犬山城主中川貞成が支配下としましたが、天正12年に発生した小牧長久手の戦いで秀吉方に与した池田恒興に奪われ、犬山城攻略の拠点として利用されています。
小牧長久手の戦いが終結すると鵜沼城は廃城となっています。
岐阜県:城郭・再生リスト
|