・当城郭の詳細は不詳ですが、位置関係等から山口城主である古田氏の居館として築かれたと推定されています。
詰め城となる山口城の詳細も不明な事が多く、一般的には文治3年の鎌倉幕府の有力御家人で美濃国守護の就任した梶原景時によって築城されたとされます。
景時は有能な官僚として重用され、幕府内に確固たる地位を築いていましたが、晩年はその権勢と不遜な態度から他の御家人達との対立を招き、66人による景時排斥の連判状が将軍源頼家に提出され、景時は幕府の一線から離れ本貫地である相模国一ノ宮に退去しています。
しかし、正治2年に一族を率いて上洛しようとした際、その途中で土豪等と交戦となり、一族の多くが討ち取られ景時も近くの西奈の山の山頂付近で自刃しています。
当地は谷汲街道と越前街道が交差する交通の要衝だった事から戦国時代になると軍事的に重要視されるようになり、古田氏が拠点として利用されるようになったとされます。
古田家は美濃国内に本貫地を物豪族で、出自は定かではありませんが、かなりの勢力だったようで、応仁の乱後は二派に分裂し、度々対立した事から家系図も明確なものが残っていないようです。
当家は当初、美濃国守護の土岐家に従っていたようで、六代目当主である古田兵庫之助大膳亮正重は土岐頼芸に仕え、天文元年に山口城主に就任しています。
土岐家が没落すると斎藤道三に与し、弘治2年に発生した長良川合戦では道三方として参陣し討死しています。
跡を継いだ7大目古田吉左衛門重清は斎藤義竜と斎藤龍興に従い美濃十八将に数えられましたが、永禄7年に斎藤家が没落すると織田信長に仕えています。
織田家家臣時代には羽柴秀吉の幕下となり、天正7年に行われた三木城攻めで多くの一族と共に討死しています。
跡を継いだ8代目古田兵部少輔重勝は豊臣秀吉に仕え、小田原合戦や朝鮮出兵等で功績を挙げ、文禄4年に山口城から松坂城に移封になっています。
詳細は判りませんが、上記の家系図では7代目の重清の3男古田助三郎織部正重能が古田織部重然の事として記されています。
この事から山口城、又は麓の居館が古田織部の生誕地との説があります。
一方、織部は山口城主だったとの記録や、古田重定の子供説等があります。
居館は約100m四方で、南東と北西等に土塁や堀の一部が残されています。
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