・加賀野井城が何時頃築かれたのかは判りませんが、天正年間には加賀井弥八郎秀望が城主だったとされます。
加賀井氏の祖は南北朝時代に南朝方の任瑜法親王に従った坊官だったとされ、任瑜法親王が現在の羽島市桑原町大須の北野山真福寺に下向した際、同行したとされます。
加賀井重宗は天正10年の本能寺の変で織田信長が死去すると、織田信雄に従い、8千石が安堵されています。
天正12年に発生した小牧長久手の戦いでは信雄方として参戦した為、秀吉勢に攻められ、奮戦したものの救助要請を出したはずの徳川家康が動かなかった為、加賀野井城は落城、加賀井親子は秀吉勢を突破し伊勢に逃れています。
戦後、秀吉は加賀井親子を召喚したものの重宗は主家を変える事を潔しとはせず隠居し、跡を継いだ重望は秀吉に服従し1万石が与えられています。
慶長5年、関ヶ原の戦い直前、重望は三河の池鯉鮒で宴席に出席した際、同席していた水野忠重と堀尾吉晴と口論となり、それが原因で忠重を惨殺、吉晴を負傷させました。
それを激怒した両家の家臣達から重望は切り殺されています。
元々、重望は西軍方として行動していたとも云われ、跡を継いだ子息は本戦で西軍が敗北した後も西軍の本拠地だった大垣城で籠城し続けましたが、落城後捕縛され水野勝成に処刑されたと伝えられています。
これにより加賀井家は断絶、加賀野井城も廃城となっています。
現在城跡らしい遺構は失われ、その一角に案内板が設置されています。
加賀野井城の城跡は貴重な事から岐阜県指定史跡に指定されています。
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