・黒野城は文禄3年に加藤貞泰が築城した平城です。
加藤貞泰は天正8年に豊臣家の家臣である加藤光泰の次男として生れ、文禄2年に光泰が死去すると加藤家の家督を継ぎ、文禄4年に甲斐国から美濃国黒野4万石(美濃国厚見郡内2万5千292石・方懸郡内1万4千700石)に移封となっています。
慶長5年に発生した関ヶ原の戦いでは当初は西軍として行動し犬山城の防衛の任に就いたものの、その後は東軍に転じて大垣城攻めに参加し、本戦では島津軍と対峙、掃討戦では水口岡山城攻めで戦功を挙げています。
父親の光泰は甲斐国24万石だったものの、貞泰は若輩を理由に4万石に減封された事を恨んでいたとも云われています。
慶長15年に貞泰は伯耆米子藩6万石で移封となり、黒野領4万石は加納藩に組み込まれた為、黒野藩は廃藩、黒野城も廃城となっています。
黒野城は輪郭式の平城で、規模は東西約1キロ、南北約800m、本丸を中心に二之丸、三之丸が配され、三重の堀と土塁で囲っていました。
本丸は約110m四方で、土塁は高さ約5m、堀の幅約15m、藩主居館と藩庁が置かれ、北東と南東隅には櫓が設置されていました。
現在も本丸を囲う土塁や堀、櫓台等の遺構が奇跡的に残され、貴重な事から岐阜市指定史跡に指定されています。
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