・山下城は天正5年に三木三澤国綱が築いた城郭で、詰城(山城)と麓の居館で構成されていました。
三木三澤は元々、飛騨国一宮である水無神社の神官で「一宮」姓を掲げていましたが、神職を森氏に譲り、領主だった姉小路(三木)良頼の家臣となり娘婿になった事から三木姓を名乗る事を許されています。
天正13年に金森長近が飛騨国に侵攻すると、国綱は姉小路(三木)家の本城である松倉城に立て籠もって抵抗したものの、家臣の裏切り等もあり落城、国綱は逃亡し、山下城も金森家に接収されています。
その後、住民達の助命嘆願により国綱は許されたものの、娘が人質として長近の元に送られ隠遁生活を余儀なくされました。
しかし、金森家の悪政により旧領民の不満が募り、国綱はその纏め役として頼られる存在だったようで、同じく金森家の飛騨侵攻で浪人となった江馬時政や鍋山利高、鍋山右近太夫、広瀬宗直等と糾合し「三沢の乱」と言われる一揆の首謀者となっています。
三澤勢は金森可重が守る山下城を激しく攻め立てたものの、国綱は金森家の家臣槌打小金に討ち取られ敗北、首は鍋山城下に晒されたと伝われています。
その後、山下城は金森可重に焼き払われ廃城となっています。
居館は現在鎮座している稲荷社の東側の幅上に設けられ殿屋敷と呼ばれていました。
詰め城の山城には城番と呼ばれた見張処があり、松倉城への連絡の為の烽火台があったとも云われています。
居館跡に隣接する夫婦松は山下組の牛馬の血取りが行われた広場にあり、推定樹齢200年、向かって右側の樹高は10m、目通り幹周3m、左側の樹高は7m、目通り幹周2.5m、貴重な事から高山市指定天然記念物に指定されています。
岐阜県:城郭・再生リスト
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