・相羽城が何時頃築かれたのかは不詳ですが、「新撰美濃志」によると建暦から建保年間頃に饗庭氏によって築かれたと記されています。
饗庭氏は土岐家2代当主土岐光行の2男である光俊が当地に配された際、地名に因み「饗庭」姓を掲げたのが始まりとされます。
光俊は承久の乱で討死しますが、後裔である二郎太郎国綱、国頼、国信が相羽城を居城にしていたとされます。
国信は斎藤義龍に従い西美濃十八将に数えられ、弘治2年に発生した長良川の戦いでは長井規秀勢と戦い戦功を挙げたものの、既に相羽城から退去していたようで、記録上では天文年間に長屋景興が城主となっています。
本巣市長屋に鎮座している長屋神社は天文元年に長屋景興が相羽城から見て北東に位置する地に鬼門鎮守として遷座奉斎したとの由緒を持っている事からこの頃に城主になったと思われます。
景興は美濃国守護の土岐頼芸に従ったものの天文16年に発生した「相羽館の戦い」で長井規秀(斎藤道三)勢に攻められ、嫡子である与五郎右衛門景直と共に討死しています。
その後、鷹司氏が城主になったようですが、天文18年に織田信秀に攻められ落城し、間もなく廃城になったと思われます。
相羽城は梶尾川とその支流である三水川を天然の外堀と見立て中世の平城で、現在の八幡神社の境内が本丸跡とされ、社殿付近が周辺より2m程高く城跡を思わせてくれます。
相羽城の城跡は貴重な事から大野町指定史跡に指定されています。
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