・妻木城士屋敷(妻木陣屋)は江戸時代に妻木氏によって設けられた陣屋構えの妻木家と家臣屋敷です。
妻木家は美濃源氏嫡流で、鎌倉幕府の有力御家人だった土岐光定の9世孫にあたる彦九郎弘定が妻木郷に配され、地名に因み「妻木」姓を掲げたのが始まりとされます。
明智家とは深い関係で、明智光秀の正室である熈子は妻木家出身とも云われています。
熈子の父親とされる妻木広忠が光秀の与力として重用された為、本能寺の変でも光秀に同調したと見られ、明智家が滅亡すると、その供養の為、明智家の菩提寺である西教寺に明智家の墓碑を建立し、その前で巡視したと伝えられています。
跡を継いだ貞徳は織田信長の馬廻りであったものの、妻木郷に隠遁生活を余儀なくされ、間もなく頼忠に家督を譲っています。
頼忠は妻木家の独立を守ろうとしましたが、森長可の圧力に屈し、その後は森家の家臣として各地に従軍しています。
慶長5年に発生した関ヶ原の戦いでは父親と共に東軍に与して岩村城攻め等に参加し、慶長6年に土岐郡内7千5百石の所領が庵ぢされ、当地に陣屋を整備しています。
跡を継いだ妻木頼利は木曽三川の普請奉行や多賀大社の造営奉行等を歴任、頼利の長男である頼次は弟の兵九郎幸広と兄弟不和となり、妻木騒動と呼ばれる家督争いに発展、頼次は7千石を相続したものの、幸広に5百石を分知しています。
万治元年に頼次が当地で病死すると嗣子が居なかった事から断絶し、当屋敷も廃されています。
現在も石垣、土塁、郭の形状、堀、井戸等の遺構が残され、貴重な事から岐阜県指定史跡に指定されています。
又、門の一つが妻木家の菩提寺である崇禅寺の惣門として移築されています。
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