・竹中氏陣屋は慶長13年に竹中重門が築いたのが始まりとされます。
竹中重門は豊臣秀吉の軍師として知られた竹中半兵衛の嫡子で、半兵衛が死去すると家督を継いで秀吉に仕えました。
各地に従軍して功績を重ね、その恩賞により天正17年には美濃国不破郡5千石が与えられています。
その後、朝鮮の役でも功績を挙げ1千石が加増され合計6千石となっています。
慶長5年に発生した関ヶ原の戦いでは当初、西軍に与したものの、その後、東軍に転じ、黒田長政隊に入って参陣しています。
本戦が終結すると徳川家康から米千石が与えられ、それを費用として戦死者の埋葬と西首塚、東首塚の造営、被害があった社寺の修復を命じています。
江戸時代に入ると交代旗本になった事から、慶長13年にそれまで居城としていた菩提山城と、西福村にあった居館を廃止し岩手村に新たな陣屋を構えました。
寛永8年、重門の死去に伴い重常が家督を継ぎ、万治元年に火災により焼失した禁裏の再建工事の奉行を担当し従五位下越中守に叙任されています。
寛文4年に重常が死去すると、重高が家督を継ぎ、その際、弟である重之に河内国内にあった1千石を分知し、5千石となっています。
幕末の当主だった竹中重固は幕府陸軍奉行に抜擢され長州征伐や鳥羽伏見の戦いで幕府軍を指揮し、その後も幕府軍として戊辰戦争を戦い抜き、函館戦争にも参加しています。
陣屋は東辺74.23m、北辺68.18m、西辺65.75m、南辺76.96m、総坪数1636坪、周囲を堀で囲み、正面付近は石垣を積んで、残りは土塁で囲いました。
櫓門は元々、関ヶ原玉の濱六兵衛の屋敷に建てられた建物で、杉山内蔵助が移設したと伝えられています。
構造は切妻、桟瓦葺き、上層部は白漆喰仕上げ、桁行6間、梁間3間、明治維新後に破却されそうになりましたが、高橋弥八郎氏等の尽力により菁莪学校(後の岩手小学校)の正門として破却を免れています。
竹中氏陣屋の跡地は貴重な事から岐阜県指定史跡に指定されています。
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