・館主である金森宗貞は、元々は越前国出身で糸屋彦次郎宗貞と名乗り、金森長近が越前大野城の城主時代に知見を得たようです。
長近が飛騨国移封になると、飛騨国の鉱山開発の担当として飛騨に招かれましたが、元々の屋号である「糸屋」から察すると宗貞は鉱山技術者というよりは、絹や綿、着物等を取り扱う商人のような存在だったと推察されます。
宗貞は鉱山奉行に抜擢され、和佐保銀山や茂住銀山、蔵住金山等の開発に尽力し大きな成果を挙げると、長近から「金森」姓を与えられ、当地に屋敷を構えました。
屋敷は三方を高さ3m程の石垣で囲い、石垣の上には板塀、4隅には櫓が設けられ、背後の高原川が天然の要害となっていました。
南、北、東の3方にはそれぞれ櫓門が設けられ、最盛期には屋敷内に毎日生銀七駄が積み込まれたとされます。
しかし、慶長13年に長近が死去すると宗貞は自ら屋敷に火を放ち、金七駄を持って越前国に退去しています。
理由は判りませんが、かなり羽振りが良かった為、政敵が多かった事や不正で私財を貯め込んだ事等が考えられ、後ろ盾だった長近を失った為、身の危険を感じたとも云われています。
その後、宗貞は小浜藩主の京極高次や酒井忠勝に仕え、小浜を代表するような豪商に発展し、寛永20年に死去しています。
金龍寺は大永年間に開創されたと伝わる寺院で、江戸時代に入ると衰退しましたが、宗貞が越前国東郷村の永昌寺から通山隣達を招いて再興し、宗貞の死後、寛永年間に屋敷跡に境内を遷しています。
金森宗貞邸の跡地は貴重な事から岐阜県指定史跡に指定されています。
岐阜県:城郭・再生リスト
|