・牛洞陣屋は延宝5年、戸田氏胤が大垣藩主戸田家の支流4千石の内、3千5百石を受け継いだ際、領地を支配する為の行政機関、領主居館として築かれたものです。
当家は大垣藩初代藩主戸田氏徹の6男である戸田氏照が、宗家を継いだ兄の戸田氏信から新田分の4千石を分知され分家を起したのが始まりです。
氏照は島原の乱の参陣等で功績を挙げ、徳川家綱の附属となり、御小姓や西の丸御徒の頭、御書院番の番頭や大番の頭等を歴任しています。
氏胤が家督を継いだ際、弟の氏道に深坂村5百石を分知した為、3千5百石となり、牛洞に陣屋を構えた事から牛洞戸田家とも呼ばれました。
元禄14年に氏胤が死去すると、長兄の三四郎が早逝していた事もあり、僅か6際の戸田氏常が家督を継いでいます。
氏常は御寄合衆等を歴任していましたが、享保4年、家臣が鷹狩中の8代将軍徳川吉宗一行を誤って進路妨害した事から一時出仕停止処分が下されています。
戸田氏休は先代で父親である戸田氏香の娘を養女とし、宴席の土浦藩主土屋陳直の三男氏純を婿入りさせ家督を継がせています。
氏純は氏休の娘を養女とし、縁戚である松平康郷の七男である氏永を婿入りさせ家督を継がせています。
氏永の跡を継いだ氏寧は御小納戸、西の丸小姓、西の丸小姓頭取、小姓組番頭、書院番頭、大納言殿御側等を歴任しました。
戸田定之助と氏益は家系図に混乱が見られ、何らかなトラブルがあったのかも知れません。
陣屋の跡は個人宅として利用されていますが、当時の石垣が明瞭に残されおり、貴重な事から大野町指定史跡に指定されています。
唯一の建築物の遺構である陣屋門は近くの民家に移築されており、構造は、切妻、桟瓦葺き、三間一戸、薬医門形式、貴重な事から大野町指定重要文化財に指定されています。
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