・大富館は天喜5年に源頼国が大里郷に配された際、居館として設けたとされます。
頼国は清和源氏3代目当主源頼光の長男として生れ、逸話上では父親の頼光と共に酒呑童子討伐を行い茨木童子の居城だった「鬼ヶ城」を攻め落としたとされます。
文治5年に頼国の五世後裔の光衡が源頼朝から美濃国守護職に命じられた際、土岐郡家の地である一日市場館に遷った事から間もなく大富館は配されたと思われます。
光衡は地名に因み「土岐」姓を掲げ、跡を継いだ土岐光行と土岐光定は浅野の地に居館(浅野館)を設けています。
光定の跡を継いだ土岐頼貞は美濃国守護職と高田勅旨田の地頭に就任し、再び大富に館を遷しています。
正中の変の際には、後醍醐天皇の密旨を受けた日野資朝が当館を密かに訪れ、頼貞と討幕運動の計画を練ったとされます。
しかし、計画は六波羅探題により露呈され、10男の頼兼、頼員、多治見国長等は追討を受け自刃しています。
頼貞は追討を逃れた後、討幕軍に参加し建武の新政では美濃国守護職に任命されています。
頼貞の跡を継いだ土岐頼遠は本拠地を長森城に遷した為、大富館は再び廃されています。
大富館の跡地は貴重な事から土岐市指定史跡に指定されています。
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