・八神城は鎌倉時代に尾張国長岡庄石田郷の司職を担っていた毛利氏が本拠地を当地に遷した際に築いたと推定されています。
八神毛利氏は河内源氏棟梁だった源義家の七男である源陸奥七郎義隆が相模国愛甲部毛利庄に配された事から地名に因み「毛利冠者」を名乗ったのが始まりとされます。
6代目大明広秀の代に美濃国に入り、美濃国守護職の土岐家に仕えています。
戦国時代の毛利広盛は主家である土岐頼芸が天文11年に斎藤道三により尾張国に追放された事で、斎藤家に仕える事となり、斎藤家が没落すると織田信長の家臣となっています。
永禄年間には八神城が本格的な城郭へと拡張整備が行われたと推定されています。
本能寺の変で信長が倒れると豊臣秀吉に仕え、関ヶ原合戦前後に徳川家の家臣となっています。
その後、徳川義直に付けられ後裔は知行3千石の尾張藩士となっています。
八神城は一国一城令等もあり廃城となりましたが、その後も江戸時代を通して、八神毛利家の屋敷として利用され、明治維新後も当地に居住しています。
現在も八神城の城跡には土塁の一部が残されており、貴重な事から岐阜県指定史跡に指定されています。
建物の遺構としては2基の城門が現存し、1基は民家、1基は真福寺の山門として移築されています。
城跡に残る公孫樹は本拠地を下中町石田から当地に遷した際に植樹されたと伝わるもので、推定樹齢約300年、樹高約30m、目通り幹周3.9m、貴重な事から羽島市指定天然記念物に指定されています。
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