・織田河内守邸は織田長孝によって設けられ居館です。
織田長孝の正確な誕生年は不詳ですが織田信長の弟である織田有楽斎長益の長子として生れました。
次兄である織田頼長が長益の正室 雲仙院殿(平手政秀の娘)との長子だった事から嫡男となり、長孝は別家扱いとなっています。
父親の長益は織田信長健在だった頃は織田家一族の中では上位に格付けられていたものの、天正10年の本能寺の変後は甥にあたる織田信雄に与した事で、天正18年に羽柴秀吉との対立から信雄が没落した事で大きくその地位を下げ、秀吉の御枷衆2千石、長孝は美濃大野村5百石に留まっていました。
慶長5年に発生した関ヶ原の戦いでは長益、長孝共に徳川家康に従い、450の兵を率いて本戦に参戦し、小西隊、大谷隊、石田隊、宇喜多隊と交戦、特に長孝隊は西軍の戸田重政と戸田内記を討ち取る功績を挙げました。
これらの軍功により長益は大和国ない3万2千石、長孝は美濃国大野郡内1万石が与えられています。長孝は野村に拠点を設け、野村藩を立藩、織田河内守邸が藩庁、藩主居館だったと思われます。
慶長11年に長孝が死去すると嫡男である織田長則が家督を継ぎ、野村藩2代藩主に就任しています。長則は元和6年に大坂城普請役を担い、寛永3年に3代将軍徳川家光の上洛の際の供奉しましたが、寛永8年に死去すると嗣子が居なかった事から改易となり野村藩も廃藩、邸宅も廃されたと思われます。
戦前までは邸宅を取り囲むように土塁が残されていたようですが、現在は西の区画に僅かにその遺構が見られるだけとなったようです。現在の3代目野村モミジは長孝が多芸郡金屋村から植樹したカエデを原木とするもので貴重な事から大野町指定天然記念物に指定されています。
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