・石河邸は江戸時代に尾張徳川家に仕えた石川氏の居館として利用されました。
石川氏は清和源氏多田満仲の2男である大和守頼親を祖とする氏族で、頼親の3男頼遠は前九年合戦で功績を挙げ、陸奥国石川郡泉荘を賜り、地名に因み「石川」姓を掲げました。
鎌倉時代には御家人となり、承久3年に発生した承久の乱の功績により石川成田五郎光治が美濃国厚見郡橋庄の地頭に就任し、一族の多くが美濃国に入部したとされます。
戦国時代に鏡島城の城主だった石川杢兵衛光信は織田信長に仕え、その子供である杢兵衛光政と伊賀守光重は豊臣秀吉に仕え、当家は光重の後裔とされます。
光重は天正16年に聚楽第行幸の際に天王の鳳輦に供奉し、秀吉の側近として活躍し、跡を継いだ石川光元は大正5年に1万石を与えられ、播磨龍野城代に就任しています。
その後も小田原の役に従軍し、文禄元年には肥前名護屋城に三之丸御番衆の御馬廻組として駐屯しています。
光元は豊臣政権下では官僚の1人として活躍した事もあり慶長5年に発生した関ヶ原合戦では西軍に与した為、改易となっています。
しかし、光元の側室だったお亀の方が離縁後、徳川家康の側室となり後の尾張藩主徳川義直を産んだ事から光元とお亀の方との間に生れた石川光忠は慶長13年に召し出され、慶長15年に美濃国内と摂津国内、合計1万300石が与えられました。
慶長17年には徳川家康の命により義直の附属となり、名古屋城の城代に抜擢されています。
跡を継いだ石川正光は弟達に分知した事で7千300石となり、尾張藩五家老に数えられ、寛文9年に本拠地を美濃国石津郡市之瀬から中島郡駒塚に遷し陣屋を構えています。
4代目当主正章が「石川」から「石河」に姓を改め、以後、「石河邸」と呼ばれるようになったと思われます。
現在は民家として利用されている為、目立った遺構が確認出来ませんが、跡地は貴重な事から羽島市指定史跡に指定されています。
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