・高須城は暦応元年に氏家重国が築いたと伝わる中世から近世にかけての平城です。
氏家氏は越中国出身の土豪だったとも云われ、南北朝時代には氏家重定と氏家重国が北朝方の有力武将で北陸地方の守護を担っていた斯波氏に属していました。
重定、重国隊は南朝方の主力だった新田義貞を討ち取る大功を挙げた為、美濃国内に所領を与えられ、その拠点として高須城が築かれたとされます。
その後の詳細は不詳ですが、戦国時代の大永2年に大橋源左衛門重一が本格的な城郭へと拡充整備が行われ、事実上の築城とも言えます。
跡を継いだ大橋重長は織田家に属したものの、その後の詳細は不詳、天文3年から弘治2年までは高津直幸が城主となっています。
その後は平野長治、恒川信景、鷲巣光康、秋山信純、林長正、林正三、稲葉正成、日根野弥十郎信勝、加藤伝左衛門重次が城主を歴任しました。
文禄元年に豊臣家に従い九州平定、小田原征伐で功績があった高木十郎左衛門盛兼が入封し、海西部、石津郡内1万石が安堵されています。
慶長5年に発生した関ヶ原合戦で盛兼は西軍として高須城に立て籠もった為、東軍方の徳永寿昌と市橋長勝に攻められ落城、改易となっています。
慶長6年に徳永寿昌が5万石で入封し高須藩を立藩、高須城は藩主居館、藩庁として整備されました。
跡を継いだ昌重は慶長19年に発生した大坂冬の陣では松平忠明隊に配属され船場を守備し、元和元年の大坂夏の陣では道明寺口の戦いで多数の敵首を討ち取った功績を挙げ、5万3千7百石に加増されています。
しかし、寛永5年に大坂城二之丸の石垣普請工事の遅れが問題視され改易となり高須城も廃城となっています。
その後、天領になりましたが、寛永17年に小笠原貞信が2万2千石で入封し、改めて高須藩が立藩、しかし、小笠原家は城主格では無かった為、陣屋構えに留まっています。
元禄4年に貞信が転封になると再び天領になりましたが、元禄13年に尾張藩徳川光友の2男である松平義行が3万石で入封し、以後、高須松平家が藩主を歴任し明治維新を迎えています。
明治3年に尾張藩に併合された事で高須藩は廃藩となり、明治6年の高須陣屋も廃されています。
10代藩主松平義建は子供が多く、8男である松平定敬が桑名藩主のなった関係で、桑名市にある六華苑には高須陣屋の唯一の遺構である御殿の一部が移築され、貴重な事から名称「旧高須御殿」として三重県指定文化財に指定されています。
高須城の城跡は、現在、敷地の多くが海津明誠高等学校や、公園、宅地等となっており、土塁や堀の一部が残されているのみとなっています。
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