・革手城は文和2年に美濃国守護職の土岐頼康によって築かれた中世の城郭です。
それまでの土岐家は長森城を本拠地にしていましたが、頼康は信濃国、伊予国平定で軍功を挙げ、その恩賞として美濃国だけでなく尾張国と伊勢国の守護職も与えられた為、新たに革手城を築き城域の狭い長森城から本城を遷しました。
しかし、頼康の跡を継いだ土岐康行は3代将軍足利義満の挑発に乗った為、嘉慶3年/元中6年に追討令が出され、明徳元年/元中7年に敗北しています。
これにより、尾張国、伊勢国の守護職は剥奪され、跡を継いだ土岐頼忠は美濃国一国の守護職に留まっています。
文安元年に当地の有力者だった富島氏、長江氏、斎藤氏が美濃国守護代の座を巡り相争った為、国内が疲弊し、土岐家の権力も陰りを見せ始め、守護代となった斎藤利永が台頭するようになりました。
応仁の乱では土岐成瀬が西軍として京都に布陣した関係で、西軍方の公家等が大挙して革手城の城下に移住した為、京都の文化が入り込み大いに賑わったとされます。
戦国時代に入ると後継を巡っての内乱や斎藤氏の勢力拡大により衰微し、永正14年頃には福光に守護所が遷され、土岐政房の嫡男である土岐政頼が城主として配されています。
大永7年、長井規秀(斎藤道三)に攻められ革手城は落城、政頼は越前に落ち延び規秀に与した土岐頼芸が城主となっています。
天文21年、斎藤道三は土岐家を美濃国から追放し、拠点を稲葉山城(岐阜城)に遷した事から革手城は廃城となり、江戸時時代に加納城の拡張整備が行われると、残された土塁の土が利用された為、城跡の正確な位置すら不詳となっています。
石碑が建てられている所は推定城域の北端とも云われ、土塁跡と思われる土盛が見られます。
岐阜県:城郭・再生リスト
|