・下洞陣屋は遠藤常紀によって設けられた領内支配の為の行政施設です。
遠藤常紀は郡上藩2代藩主遠藤慶利の3男として生れ、正保3年に慶利が死去すると、長男である遠藤常友が家督を継ぎ、次兄の遠藤常昭に2千石、遠藤常紀に1千石を分知し別家を創設しました。
当初の陣屋は乙原村に設けられましたが、後年に現在地に遷されています。
当家は千石和良遠藤家と呼ばれ、和良町内の宮代村、下沢村、下洞村、金山町内の乙原村、祖師野村、戸川村、合計6村を領地としました。
常紀の跡は常英、常住、常郷、常徳が領主を歴任し明治維新後は鎮之助が就任しています。
常英は小普請組、御小姓組等を歴任し松平与左衛門忠一と共に中国地方の巡察を行っています。
常住は御小姓組、御使番、御先鉄砲組頭、火付盗賊改等を歴任しましたが、明和4年に許可なく容疑者を釈放した事が問題視され解任されています。
常郷は御書院番、常徳も御書院番、鎮之助は御小姓組を担っています。
鎮之助は明治元年に早々と新政府軍に降伏したものの、領民は政府直領になる事を望んだ為、一揆が発生しています。
下洞陣屋は前面に流れる鹿倉川の支流である真那洞ヶ川が天然の堀に見立、川沿いと地形に合わせて石垣が積まれ、敷地内には追手門の他、正門、脇門、陣屋主棟、役人詰所、庭園、垣内畑、用水、米蔵等が整備されました。
現在も石垣うあ敷地の形状等の以降が良く残され、貴重な事から郡上市指定史跡に指定されています。
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