・大井城は永享7年に美濃国守護職の土岐家の家臣である原秀行に命じて築かせたとれる中世の城郭です。
永享10年には永享の乱が発生し、6代小gン足利義政と鎌倉公方の足利持氏が激しい対立をしており、土岐持益は大井地域の守備を秀行に命じています。
応仁の乱の際、美濃国守護の土岐成頼は西軍に与しましたが、文明5年頃には西軍が衰退した事もあり、東軍に与した信濃の松尾城主小笠原家長と木曽家豊が東美濃に侵攻し大井城は小笠原勢により占拠されています。
応仁の乱後は引き続き松尾小笠原家が支配しましたが、天文3年に内紛により勢力が大きく後退した事から岩村城の城主だった遠山景任が接収し、家臣である藤井宗常を配しています。
元亀3年に武田信玄が当地に侵攻すると武田領となり、岩村城主よなった秋山虎繁に攻められ天正元年には大井城も管理下に入っています。
天正3年に発生した長篠の戦で勝利した織田信長は武田領侵攻を本格化させ、総大将に指名された織田信忠は武田家に属した城を次々と陥落させ、大井城もその一つとして織田勢に攻められ落城、その後廃城になったと思われます。
現在は目立った遺構はありませんが、大井小学校の校庭が城跡とされ、城郭があったような地形を見る事が出来ます。
又、発掘調査の結果、空堀と推定される窪地が確認されています。
麓には江戸時代に中山道の宿場町として整備された大井宿があり、大井宿の本陣の屋敷跡の隣地に祭られている稲荷神社は内城稲荷と呼ばれ、大井城との関係性が窺えます。
さらに、その隣には幕末に皇女和宮が本陣を利用した際に飲料水として差し出された和宮泉があり、もしかしたら城内の井戸だったのかも知れません。
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