・軽海西城が何時頃築城されたのかは不詳ですが中世、稲葉氏居城として利用されたとも云われています。
稲葉氏は伊予の豪族河野通直の4男である通貞を祖とするのが一般的で、通貞が美濃国守護職の土岐成頼に招かれ美濃国内に所領を得て、伊奈波神社を帰依した事から「稲葉」姓を掲げたとされます。
ただし、稲葉氏の出自やその後の経緯も諸説あって明確な通説は無いとされます。
応仁2年に稲葉氏が東美濃に遷ると、代わって西村勘九郎(斎藤道三)が入城したとされます。
当時の道三は庄五郎は商人でしたが常在寺の僧侶となり、さらに美濃国守護代の長井長弘の家臣となり、さらに長井家の家臣である西村家の名跡を継いで西村勘九郎正利と名乗っています。
当地が織田領になると永禄3年に織田家の家臣である池田恒興の家老片桐俊元が修築し一時居城としたようですが、翌、永禄4年に発生した織田信長と斎藤龍興との抗争である軽海合戦では織田軍の拠点となったようです。
天正10年に発生した本能寺の変で織田信長が死去すると、旧領奪還を画策する安藤守就父子が大規模な軍事行動を起しており、詳細は判りませんが当城も何らかな影響があったと思われます。
天正11年に池田恒興が大垣城の城主に就任すると、片桐俊元は大垣城の支城である池尻城に遷っています。
天正17年に豊臣秀吉の家臣である一柳直末が大垣城から5万石で入封しています。一方、「寛政重修諸家請」によると直末は天正13年に「浮見城」に6万石で配されたと記されています。
天正18年に発生した小田原の役に参陣し、伊豆国の山中城攻めでは中村一氏と共に先鋒を務めましたが、北条方の間宮康俊隊の銃弾に晒され討死し、嫡男松千代も、母方の実家である黒田家に引き取られた為、程なく軽海西城も廃城となっています。
寛永17年に一柳家により直末の菩提を追善供養する為に城跡に円長坊が設けられ、宝暦年間に正式な寺院に昇格し寺号を円長寺に改めています。
現在も円長寺の境内には土塁や堀の遺構が残され、貴重な事から本巣市指定史跡に指定されています。
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