・竹ヶ鼻城は応仁年間に竹腰伊豆守尚隆が築城したとされる中世の城郭です。
竹腰氏は宇多源氏佐々木氏流大原氏の一族とされ、大原備中守持綱の孫にあたる重綱が尾張国中島郡竹腰村に配され、地名に因み「竹腰」姓を掲げました。
竹ヶ鼻城を築城した尚隆と重綱との関係性は判りませんが、一族だった可能性があります。
その後、文明年間に長井豊後守利隆が城主となっています。
長井利隆は斎藤利安、又は斎藤妙純の子供とも云われ、明応5年に美濃国守護代の斎藤利親が討死すると、跡を継いだ利良が幼少だった事から長井長弘と共に後見人として補佐し、竹ヶ鼻城を子供である隼人正道利に任せ、自らは加納城に入っています。
その後、不破権内綱村が城主となり、天正8年頃に綱村の子供である不破源六広綱が跡を継いでいます。
広綱は織田信雄の家臣だった人物で所領は3千6百貫文、竹ヶ鼻城の拡張整備に尽力し、鬼門には八剣神社を遷座、本覚寺を開創する等、社寺の保護や城下町の町割りも行っています。
しかし、天正12年に発生した小牧長久手の戦いで、羽柴秀吉と対立した事で、城下を取り囲むように堤が築かれ城下を水没させる水攻めが行われ、約1ヵ月の籠城戦の末、開城に応じています。
秀吉は竹ヶ鼻城攻防戦で大きな功績を挙げた一柳直末を配し、直末が大垣城に遷ると、伊木清兵衛忠次、森寺清右衛門、杉浦五左衛門重活が城主を歴任しています。
重勝は織田信長、信雄、秀信に仕え、概ね1万石程度の所領を有し、文禄元年に竹ヶ鼻城の城主となり、慶長5年に発生した関ヶ原合戦では秀信と共に西軍として軍事行動を起しています。
重勝は竹ヶ鼻城で福島正則隊と激しい戦いを繰り広げたものの、梶川三十郎、毛利掃部、花村半左衛門等が次々と裏切った為、城内に混乱に陥り、僅かな忠臣のみで本丸を死守したそうです。
しかし、奮戦空しく、大軍に攻め立てられ、最後は城に火を放って自刃、残った忠臣達も重勝の最後を見届けた後に遺骸を取り囲むように自刃して果てたと伝えられています。
竹ヶ鼻城の城跡は貴重な事から羽島市指定史跡に指定されています。
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