・野口館が誰が何時頃、築いたのかは記録が残っておらず謎とされます。
一方、平成年間に行われた堀周辺の調査から、鎌倉時代から室町時代にかけて陶器が発見された事から、野口館の築城年は鎌倉時代まで遡る可能性があります。
江戸時代に入ると、当地を代表する豪農である安積家が居を構え、現在に至るまで屋敷を構えています。
安積家は元々、美濃の土豪や地侍と呼ばれた家柄だったようで、領主の命で各地の合戦に参加し、慶長5年に発生した関ヶ原合戦では東軍に与し、徳川家康の重臣である本多忠勝と井伊直政が連名で野口村の禁制を賜っています。
江戸時代に入ると完全に帰農したようで、代々野口村の庄屋を歴任しています。
一方、一族の一部は山之内一豊に仕える武士として土佐藩士となっています。
その後、安積家は江戸時代の領主で、旗本である徳山氏からは武士と同格の苗字帯刀が許され野口村の開発に尽力しています。
野口館は東西77m、南北76mの粗正方形の平面で、周囲は高さ約4mの土塁と深さ2mの堀で囲っていました。
南側中央には大手門思われる虎口があり、向かって右側には櫓を設けたような土盛があり、東南隅には小規模な曲輪が設けられています。
基本的には単郭と思われますが、上記のように曲輪とも追われる部分がある為、築城年は鎌倉時代以降とも考えらます。
又、明治4年に施行された廃藩置県により大垣藩が廃藩となり大垣城が廃城になると明治6年に施設の多くが入札にかけられ、明治13年に安積家が城門の一つを買い取り、当家の表門として屋敷内に移築しています。
その後、「安積門」として親しまれてきましたが、平成21年に中山道の宿場町である鵜沼宿の再生の為、景観重要建造物として移築されています。
岐阜県:城郭・再生リスト
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