・西高木家陣屋は慶長6年に高木貞利によって築かれた当地を領する為の行政施設と領主の居館です。
高木貞利は美濃国今尾城主である高木貞久の子供として生れ、父親と共に織田信長に仕え、各地の合戦に従軍し功績を挙げています。
天正10年に発生した本能寺の変後は織田信雄に仕えたものの天正18年に信雄が改易になった為、甲斐国の加藤光泰の下に蟄居しています。
文禄4年から徳川家康に仕えるようになり、慶長5年に発生した関ヶ原の戦いでは東軍として功績を挙げ、慶長6年に美濃国石津郡2千石が加増され、当地に築城されていた多羅城を利用し陣屋を整備しています。
その際、貞利は2千3百石で西高木家を起し、弟である高木貞友に1千石を分知し東高木家を起し、甥である高木貞年に1千石を分知し北高木家を起しています。
この3家は交代美濃衆と呼ばれ3家隔年交代で参勤交代を行っています。
基本的に準大名家扱いだった事から寛永元年以降は国役普請奉行や水行奉行等を担い、3家共に幕末まで存続し明治維新を迎えています。
西高木家陣屋は揖斐川の支流である牧田川が形成した河岸段丘に位置し、東面は伊勢街道が通過する交通の要衝でもありました。
河岸段丘の地形を利用して、要所には石垣が築かれ、埋門も設けられてました。
大きく2つの郭があり、北側の郭には上屋敷、南側の郭には下屋敷が設けられ、上屋敷の西側には高木家の墓域が整備されています。
天保3年火災によって多くの建物が焼失し、再建の際には主屋の主軸を変更しています。
現在も石垣の他、嘉永5年に造営された下屋敷の長屋門や土蔵部材、明治年間に再建された主屋、古文書10万点が残されています。
西高木家陣屋の跡地は貴重な事から国指定史跡に指定されています。
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