・十七条城が何時頃築城されたのかは判りませんが、南北朝時代初頭頃に船木三郎頼胤が築いたとも云われています。
頼胤は土岐頼員の子供として生れ、暦応元年に病死し、美江寺を菩提寺にしてようです。跡を継いだ武藤二郎頼実は頼胤の子供として生れたものの、母親の姓を名乗ったとされ近江の塩津合戦で討死しています。
その後、二階堂三蔵、二階堂安右衛門、仙石権左衛門秀豊、和田五郎兵衛利詮が城主を歴任しています。戦国時代の享禄年間には林佐渡渡守正長が本城を十七条城に遷し城の修築を行っています。
正長の跡を継いだ林玄蕃は斎藤龍興に従った為、永禄5年に発生した織田信長との軽海の戦いで討死しています。
跡は弟である林宗兵衛正三が継ぎ、天正6年に正三が死去すると、稲葉家に養子となっていた正三の子供である稲葉佐渡守正成(市助)が城主となっています。正成は当初、2万石程度の所領でしたが、豊臣秀吉の命により、小早川秀秋の家臣に抜擢され5万石に加増されています。
慶長5年に関ヶ原の戦い後に秀秋と対立し美濃国に蟄居、慶長7年に小早川家が断絶すると浪人となっています。その後、徳川家康に召し出され、慶長12年に旧領である当地周辺1万石が与えられ十七条藩を立藩しています。
正成の継室である福は、後の春日局となった事から、稲葉家は徳川将軍家から重用され、正成の跡を継いだ稲葉正勝は小田原藩8万5千石となっています。
十七条城には弟の稲葉正定が1千石で尾張徳川家に仕えていましたが、孫の稲葉六郎右衛門が延宝3年に死去した際、嗣子が居なかった為断絶となり十七条城も廃城となっています。
現在は住宅地となっていますが、堀や土塁の一部が残されており貴重な事から瑞穂市指定史跡に指定されています。
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