・十九条城は大永6年に土岐頼純の命で美濃国守護代の斎藤利良によって築かれた中世の城郭です。
当初は革手城に美濃国の守護所が設けられていた為、その支城として機能しました。
しかし、利良が病死すると、その名跡を継いだ斎藤新九郎利政(斎藤道三)が台頭し、天文11年に土岐頼芸を尾張に追放し美濃国を掌握した事で、革手城が廃城となり、当城の役割も失った為、廃されたと思われます。
織田信長の美濃国侵攻が本格化すると当地が軍事的に重要視された為、永禄4年に廃城となっていた十九条城を改めて築城し織田一族である織田勘解左衛門信益を配しました。
信益は織田信康の子供として生れ、信長んとは従兄弟に当たる人物で、浮野の戦いや岩倉城攻防戦に参陣し功績を挙げています。
永禄5年、十九条城を巡り、斎藤龍興と織田信長との対立が深まり、大雨により川が氾濫し、十九条城と織田方との連絡で利用していた街道筋が分断した事で所謂「軽海の戦い」が勃発しています。
龍興勢は本城である稲葉山城(岐阜城)から出陣し、西に10q程離れた十四村(岐阜県本巣市十四条)に布陣、その報告を受けた信長も急遽、救援に兵を差し向けますが川が氾濫した事で中々進軍出来なかった事もあり、龍興方の猛攻に晒され、十九条城は落城、織田信益も野々村正成に討たれ討死しています。
次ぎに龍興勢は北西1q程離れた北軽海村に陣を遷すと、体制を立て直した信長勢は西軽海村に布陣、戦闘は午前中から深夜まで行われ、今度は信長勢が勝利を収め、墨俣の帰陣した後に清須に引き上げています。
十九条城は再建される事も無くそのまま廃城となっています。
津島神社境内付近が本丸跡とされますが周辺は宅地化により目立った遺構が失われています。
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