・前渡坪内陣屋は江戸時代に坪内定安によって設けられた領内支配の為の行政施設です。
定安は坪内利定の2男として生れ、慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで東軍として参加し功績を挙げた事から利定は6千5百石取の旗本として取り立てられています。
慶長15年に利定が死去すると利安には周辺600石が分知され当地に陣屋を構えています。その後は前渡坪内家が11代坪内昌壽まで領主を歴任し明治維新を迎えています。
坪内家は利定が鉄砲隊を率いて会津征伐で徳川家康に従い各地の戦で従軍する等、代々鉄砲の名手だった事で知られ、11代昌壽も各務原(現在の航空自衛隊岐阜基地周辺)を鉄砲や大砲の練習場として絶えず訓練を励んでいたとされます。その為、幕府には鉄砲や大砲の数を提出し、外国船が江戸を襲撃した際には馳せ参じる事を表明しています。
しかし、戊辰戦争の際には幕府を見限り新政府軍に与しており、板垣退助が大垣城を出立した際に率いた新政府軍の隊列では土佐藩に次ぐ2列目に配されており砲術に優れた坪内家が期待されていた事から優遇されていたと推定されています。
又、尾張藩士坪内繁五郎家は前渡坪内家3代当主嘉兵衛定勝の4男である坪内兵左衛門定繁を祖としています。陣屋の位置は現在の前渡北町三丁目一帯で規模は稲羽東小学校の約2倍程度、以前は「お屋敷」と呼ばれていました。現在は目立った遺構は失われ、鎮守社と思われる稲荷神社の境内が公園として整備され陣屋の碑と案内板が設置されています。
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