・福束城は応永21年に美濃国守護職だった土岐左京太夫頼益の家臣である福束蔵人十郎益行が築城したのが始まりとされます。
当地は牧田川舟運の重要な拠点の一つだった事から福束氏は南伊勢とを結ぶ舟運を取り仕切っていたそうです。
その後、正長元年に丸毛光慶が福塚城に入り、以来、丸毛氏が城主を歴任しています。
光慶が死去すると子供である丸毛三郎左衛門光益が家督を継ぎますがその子供である丸毛河内守光長の代の文明2年に脇田に遷っています。
光長の跡を継いだ丸毛三郎兵衛兼行は再び福束に戻り、以後、兼定、光兼が城主となっています。
土岐家が没落すると斎藤家に仕え光兼は斎藤龍興に属していましたが、永禄10年に織田信長の美濃侵攻により稲葉城(岐阜城)が落城し、龍興が北伊勢長島に退去すると、光兼は信長に仕えるようになりました。
その後、今尾城に遷されましたが天正10年に発生した本能寺の変後に丸毛三部楼兵衛兼利は羽柴秀吉に仕えた事で、天正11年に福束城主に復権し2万石を領しています。
慶長5年に発生した関ヶ原の戦いでは豊臣家に恩義を感じていた兼利は西軍として行動した為、豊臣家を見限り東軍に与した今尾城主市橋長勝や松ノ木城主徳永寿昌と大榑川を挟んで対峙しましたが、市橋隊の夜襲により城下が火の海となった為、福束城を放棄し大垣城に退いています。
本戦である関ヶ原でも西軍が敗北した為、丸毛家は改易となり、福束城も廃城になったと思われます。
跡地は明治時代頃まではそこはかとなく残っていたようですが、揖斐川改修工事でその姿が完全に消失したとされます。
一方、福満寺境内付近が城の東端にあたるとも云われ、寛政4年に一族の後裔と見られる丸毛肥後守が奉納した版木に福満寺の本堂の他、丸毛兵庫頭の墓、鎮守だった佐々木大神宮、境内に残されていた石垣が描かれています。
福束城の跡地は貴重な事から輪之内町指定史跡に指定されています。
福満寺の版木は貴重な事から輪之内町指定文化財に指定されています。
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