・釜戸陣屋は天正10年に発生した本能寺の変の際、織田信長が討たれた為、当時の秩序が大きく乱れた事から兼山城(金山城)の城主森長可は好機と悟り、周辺の国人領主や土豪を攻め、当地を支配する拠点の一つとして設けたのが始まりとされます。
その後、慶長5年に発生した関ヶ原合戦で功績を挙げた馬場家が、美濃国土岐郡、恵那郡、可児郡内1千6百石が安堵され当地に陣屋を構えました。
馬場家は木曽源氏棟梁だった木曽義仲を祖とする家柄で、家佐の代に「馬場」姓を掲げました。
一方、木曽義仲一族は没落した可能性が高く、馬場氏が主家とした木曽氏は元々沼田姓で暦応元年に沼田家村が足利尊氏に与して功績を挙げ、木曽谷北部の大吉祖荘を与えられ、地名に因み「木曽」姓を掲げた事から馬場氏も木曽氏と同じ様な理由から改姓したのかも知れません。
天正18年に木曽氏は徳川家康の関東移封に従い下総国網戸城に移封となり、馬場氏もそれに随行しましたが、間もなく主家の木曽義利が改易になった為、当時の当主である馬場昌次は浪人となっています。
慶長5年に発生した関ヶ原合戦では木曽氏の遺臣達と共に東軍に与し、妻籠城の守備や明智城、岩村城攻めにも従軍し功績を挙げ、旗本に取り上げられると釜戸陣屋を本拠地としました。
昌次の跡を継いだ馬場利重は御書院番や、御使番、御目付等を歴任し、寛永12年には1千石が加増され2千6百石となっています。さらに、寛永13年には長崎代官に就任し、寛永14年には島原の乱の平定にも参加し、乱の終結後の寛永16年には長崎奉行に昇進しています。
3代馬場利尚は明暦3年に弟である馬場利興に対して恵那郡茄子川村275石と甲斐国巨摩郡内と合わせて600石を分知し2千石となっています。その後は尚恒、尚茂、尚武、利光、昌平、克昌、昌之が当主を歴任し明治維新を迎えています。
釜戸陣屋は土岐川北岸に位置し、南側は土岐川、東側と北側はその支流によって囲われ、西側、北側、東側の3方には高さ3m程の土塁と深い空堀を設けました。現在は多くが武安に覆われていますが、土塁や空堀、石垣の一部が残されています。
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