・牧村城が何時頃築城されたのかは不詳ですが、戦国時代には斎藤龍興の家臣である牧村牛之助政倫が城主だったとされます。
当初の牧村氏は安八郡の地頭だった家柄で牧村城もその居館だったと考えられますが、戦国時代に大河内源二郎政忠の当時の当主だった牧村土佐守が敗れた為、政忠が地名に因み「牧村」姓を掲げました。
その為、中世以来の牧村氏と戦国時代以降の牧村氏は全く別系統の氏族という事になります。
政忠は強之助を名乗って稲葉伊予守通長に仕えています。諸説ありますが、年代的に通長は、長通と名乗った稲葉一徹と思われます。
政忠と政倫との関係性は判っていませんが、年代的には子供か孫、弟かも知れません。
政倫は斎藤龍興の重臣と見られ、織田信長との軽海合戦では大将として布陣し、何度も織田軍を悩ませ、結果的に信長は墨俣城に留守部隊を残して清洲城に引き上げている事からかなりの武将だった事が窺えます。
永禄2年には織田信長との対立で敗れた岩倉織田家の家老だった山内盛豊の子供である山之内一豊が政倫を頼って牧村城に寄寓したそうです。
その後、牧村兵部利貞が家督を継ぎ、牧村城の城主となっています。
利貞は稲葉重通と、牧村政倫の娘との間に生れた事から政倫から見ると外孫にあたる人物で、天正10年に発生した本能寺の変で織田信長が倒れると、羽柴秀吉に接近し馬廻衆となっています。
高山右近と親しかった事から切支丹となり多くの家臣達もキリスト教に入信させたとも云われています。
その後、小牧長久手の戦いや四国征伐、九州征伐等にも従軍し功績を挙げ天正18年には伊勢国内2万650石が与えられ岩出城主となっています。利貞が岩出山城に移封になった為、牧村城も廃城になったと思われます。
城跡は円長寺境内一円と見られ、東側の田圃から見ると僅かに高くなっていますが、目立った遺構は失われています。
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