・伏屋城は永禄年間に織田信長が美濃国侵攻の拠点として木下藤吉郎に命じて築かれた砦です。
藤吉郎は木曽川流域に割拠した土豪の協力を得て、上流で樹木を伐採し当地で逸早く建て方が出来るよう加工した材木を筏に組んで、伏屋に運び、僅か一週間で築城を完成させた事から「一夜城」とも呼ばれたそうです。
天正12年に発生した小牧長久手の戦いでは羽柴秀吉に与した伏屋市兵衛が守備しています。
伏屋氏は清和源氏の庶流とも云われ、尾張国葉栗郡伏屋(現在の岐阜県羽島郡岐南町伏屋)を本貫とする氏族で、戦国時代には織田信長や織田信忠に従い、本能寺の変後は豊臣秀吉の家臣になったようです。
文禄3年に発給された真田昌幸、真田信幸、真田信繁宛伏見城普請四奉行連署状には伏屋小兵衛為長も名を連ね、「寛政重修諸家請」にも豊臣秀吉の普請奉行と記されている事から豊臣家の官僚的な役割を担っていた事が窺えます。
又、為長は豊臣秀吉が使番衆、馬廻衆の中から特に選抜して取り立てた金切列指者使番にも抜擢され、知行地は1千石程でしたが、「豊臣」姓を賜る等信任は篤かったようです。
関ヶ原の戦いでは東軍に与したようで、下古井村内443石が安堵され幕府の旗本に取り立てられている事から伏屋城は廃城になったと思われます。
現在、城域の多くは住宅街に没していますが竹林の中に土塁の一部が残されています。
伏屋城の城跡は貴重な事から岐南町指定史跡に指定されています。
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