・津屋城が何時頃築城されたのかは判りませんが、慶長5年に発生した関ヶ原合戦直前には高木八郎左衛門正家が居城として利用していました。
正家は高須城の城主である高木十郎左衛門盛兼の縁者で、文禄元年から豊臣秀吉に従い、関ヶ原の戦いでは盛兼と共に西軍方として行動しました。
東軍方の徳永寿昌は高須城に立て籠もる盛兼に対して開城を求めると、盛兼は無血開城だと面目が立たないとし、空砲で八百長戦を行った上で降伏するとの約束をしました。
しかし。東軍方は空砲をいいことに高須城に接近し隙を突いて実弾で攻撃を開始、驚いた盛兼は何の抵抗も津屋城に退去しています。
正家は逃げ込んできた盛兼隊を収容し、迎撃態勢を整えようとしましたが、一族の高木帯刀が守る駒野城も既に開城し東軍に降伏した事から、津屋城は瞬く間に東軍に取り囲まれました。
正家は籠城戦を諦め、盛兼を連れ立ち西軍が本陣を構える大垣城に落ち延びましたが、本戦である関ヶ原でも西軍が敗れた為、盛兼は改易となり、正家も命運を共にしたと思われ間もなく津屋城も廃城になっています。
慶長8年に新たな領主となった徳永寿昌により津屋城の城跡に本慶寺が開創され、現在も土塁と空堀の一部が残され、山門である長屋門は津屋城の城門を利用したものと伝えられています。
一の曲輪は本慶寺境内北隅の一角と推定され、一段下がった本堂や庫裏が建てられている平場が二の曲輪、南側の堀を挟んだ畑地が三の曲輪だったとされます。
津屋城の城跡は貴重な事から海津市指定史跡に指定されています。
岐阜県:城郭・再生リスト
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