・氷取城が何時頃築かれたのかは不詳ですが、戦国時代には竹ヶ鼻城の出城として機能し、当時の竹ヶ鼻城の城主である不破源六友綱の弟の不破大炊頭が配されていました。
一方、昭和7年に編纂された「美濃明細記」によると、不破壱岐守が竹ヶ鼻城に配された際に支城として築かれたと記されている事から、それが正しければ天正8年頃に築かれたと事になります。
不破大炊頭は以前は池田家の組下だったようで、織田信長が鷹狩場の管理について「尚以、討当候はぬ様ニ、切角可追立事簡要候、就鉄炮停止、此方鶴・雁諸鳥希候、然者其辺知行分相触、冬春鷹野之間、鉄炮可放旨可申付候成 天正二年 十二月九日 不破大炊助 殿 田中真吉 殿」と記された書状が備前池田家が所有しています。
天正12年に発生した小牧長久手の戦いでは羽柴秀吉勢に攻められ、本城の竹ヶ鼻城が水攻めで落城すると当城も開城に応じたと思われます。
池田家は秀吉の重臣だったものの大炊は兄に従い織田信雄方として戦ったと思われます。
現在は目立った遺構は失われていますが名森小学校やその南側の公園付近が氷取城の城域だったとされます。
氷取城の城跡は貴重な事から安八町指定史跡に指定されています。
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