・曽根城は永禄年間に稲葉一徹により築城された中世の平城です。
一徹は斎藤家に従い西美濃三人衆に数えられたものの、斎藤家の没落により織田信長に転じました。
天正7年になると一徹は嫡男である稲葉貞通に家督と曽根城を譲り、隠居城となる清水城に退去しています。
天正10年に発生した本能寺の変後、貞通は羽柴秀吉に従い、主要な戦に従軍し功績を挙げた事で、天正16年に4万石で郡上八幡城に移封となり、代わって西尾光教が2万石で曽根城に配されています。
光教は豊臣家に大恩があったものの秀吉が死去すると、徳川家康に接近し、慶長5年に発生した関ヶ原の戦いでは東軍に与しています。
その際、西軍に与した島津義弘が阿多長寿員盛淳、山田有栄、伊勢貞成等70騎を引き連れ楽田の陣に着陣するとその中の2人が曽根城に奇襲をかけました。城下も火が放たれ銃撃戦が展開されました、水野勝成の援軍により難を免れています。
光教は当地の領主として土地勘に優れていた事から東軍の案内役として岐阜城攻めや大垣城攻めに従軍し功績を挙げた事で慶長6年に揖斐藩3万石に加増転封となり、曽根城も廃城となっています。
曽根城は概ね三重の堀と土塁に囲われ、平野井川を天然の外堀とした平城で、本丸の東には二之丸、東、北、西の三方には家臣等の武家屋敷、南側には町人町が町割りされています。
城下の北東には鬼門鎮守と思われる天王社が鎮座し、東側の守りとして一徹の母親の菩提寺として開創した華渓寺や弁財天が配されました。
平成元年の調査によって本丸に伴うと思われる石垣と石敷の遺構が発見され、その内側には主郭を囲んだと思われる土塁と石垣があったと推測されています。
曽根城の跡地は貴重な事から大垣市指定史跡に指定されています。
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